けいおん!化する俺達

雑記

土曜は世田谷公園で野球をしていた。最近、うちの野球チームに、なぜか10年くらい前にライターの卵をやっていたような人たちが集まってきている。10年前にこのメンバーで、「シェアハウスしようぜ!」などと物件探しをした記憶もある。

当時は、ドラマ『ラスト・フレンズ』(2008年)を見たり、『他人と暮らす若者たち』(2009年)という書籍を読んだのがきっかけでシェアハウスに興味を持ったのであった。結局、僕が「他人と暮らすのが嫌」というのに気づいて、やらなかったけど。

で、その彼らとは一緒にインディーズの雑誌や書籍を作ったりもしていたし、新宿ロフトプラスワンでトークイベントをやったりもしていた。そしてメジャーの雑誌で書くようになったり、書籍の仕事をやり始めたりする者もいた。

しかし今は誰も、メディアで目立った仕事をしていない。この野球チームに来ている人以外でも、学生の頃から一緒にやっていた人たちで、いま現役で「物書き」の仕事をしている人はほとんどいない。そうではなくプロデューサーやコンテンツ系の会社の経営者になったりしている。もしくは僕のようにWeb系の企業に就職したり、エンジニアになったりなどなど。

なんかあの頃はみんなやる気があったなぁ、と思うのだ。自己顕示欲、立身出世欲があった。「何者かになりたい」という、それこそ朝井リョウの『何者』のような感覚だった。

僕らはいまだにつながっているが、やっていることは草野球だ。いや、野球は楽しい。自己顕示欲や立身出世欲のようなグチャグチャしたものはない。われわれのチームは勝つことと楽しむことのバランスをとることに長けている。そして、ある種のユートピア的な空間をつくれている。まずいことに見つけてしまったのだ、自分たちの居場所を。

『仮面ライダー555』に出てくるフレーズで、「夢は呪いだ」というものがある。これはライムスターの「ONCE AGAIN」という曲でも引用されているのだが、なかなか言い得て妙だなと思う。

で、そういう夢の呪いから解き放たれた「平坦な戦場」が草野球だった、という身も蓋もない結論にたどり着きつつある。

実は、いま物書きのなかでも「インフルエンサー」と呼ばれ、ちゃんと売れている同年代の人たちを見ていて思うのが、「オペラ座の怪人」に出てくる「地獄の業火」というフレーズだ。

「わたしはオペラ座の怪人。思いのほかに醜いだろう? この禍々しい怪物は、地獄の業火に焼かれながら”それでも”天国に憧れる」

SNSでバズったり炎上したりしているのを見ていると、この「地獄の業火に焼かれる」という表現がピッタリ来る。地獄の業火に焼かれながら、それでも天国に憧れる。だから彼らは成功するが、生身のままなのは大変だと思う。実際に焼き尽くされてしまっている人もいる感じがする。

そしていま「物書き」をやる上では、生身で地獄の業火に焼かれても、それでも耐えられる力が必要とされる。

でもそれは、もともとは物書きに必要な資質というわけではなかったはずではないか、とも思うのだ。SNSが出てきたから必要になったものではないか。昔は2ちゃんねるぐらいしかなかったし、2ちゃんねるは「見なければ済む」という世界でもあった。

今の状況は、特殊な人たちだけが世に出られる社会を意味するなとも思う。何か繭のようなものが昔は結果的にあり、今は良くも悪くも無くなった。逆に言えば、そういう繭みたいなものを新しいかたちでつくったほうがいいような気もする。そして結論的に言ってしまえば、いわばその「繭」となっていたのが、結果的には「編集」という人たちであり、職能でもあったと思うのだ。才能はあるけれども、人前に出る勇気のない、目立ちたがり屋ではない人たち。その彼らの才能を信じて世に出す仕事でもあったんじゃないか。

でも一方で、今度のユリイカの特集は「女オタク」らしい。

青土社 ||ユリイカ:ユリイカ2020年9月号 特集=女オタクの現在

この目次を見て、「批評シーンが立ち上がっている…!」と思った。

これまでは、女性が書き手にも読み手にもなる「批評」というのは、成立しないかのような認識があったと思う。2010年に、太田出版から「オトメ コンティニュー」という雑誌が創刊されたが、2011年には休刊になってしまっている。市場的に成立し得なかったのだろう。

オトメ コンティニュー – Otome continue
(というか今探してみてオトメ コンティニューのサイトが残っているのを発見したけど、ちゃんと残してて偉いなと思いました……)

一方で、男性が読み手にも書き手にもなる市場というのは、一時期成立はしていたと思うが、今はもう相互交流もない感じになっている。こないだのカオスラの騒動は、そういう批評シーンの終焉を象徴しているのではないか、という気がしている。

同年代で物書きとして面白い、というのは本当に少ない。パッと思い浮かぶのは木澤佐登志さんぐらいだろうか。古市さんは、最近は何をやっているのかよくわからない。編集サイドでは箕輪厚介さんが有名編集者として名を馳せたが、今はこんな状況である。

そして僕のなかでは、「今、俺達は野球をしている」という状況がちょっとおもしろい。そもそも勝負から降りた人たちである。そして「終わりなき日常」「平坦な戦場」を生き抜くすべを、われわれは野球に見出している。

そう、これは『けいおん!』的な世界観なのだ。武道館は目指さない。自分たちの「いま、ここ」に、徹底的に自己充足し、部室でワイワイ楽しくやる。「デカイ一発」なんて来ない。「核戦争後の共同性」なんてものものない。僕らの前に広がっている緑のフィールドで、ちょっとの刺激と楽しさで、個々人のレベルに合わせて野球を楽しむのだ。

ところで、今の「男性」は難しいなと思う。フェミニズムがこれだけ浸透したなかで、かつての批評シーンのような、ホモソーシャル性に支えられた言説は流通しえない。

こないだ発売になった「文藝」の特集は「覚醒するシスターフッド」だった。

文藝 2020年秋季号 |河出書房新社

そういえば特集主義の復活も、「文藝」からだった。そして実際に特集主義が、売上面でも結果を残した。雑誌でこういうものがきちんと復活しているのはすごい。

かつての雑誌にあった特集主義的なものの良さは、近年では雑誌という形態をとらず単行本になっていた。劇団雌猫のいろんな仕事や、かつて「SNOOZER」や「ロッキング・オン」をやっていた田中宗一郎・宇野維正の『2010s』などが、それに当たると思う。ちなみに劇団雌猫のいろんな書籍なんか、特集「メイク」「お金」「海外オタク事情」「恋愛」というふうに捉えると、完全に雑誌の特集である。

上記のようなことを考えると、なんかさみしい気もする。自分の周囲の男性たちは完全に「けいおん!」化している。

もう争ったり、自己顕示欲に身を焦がすのはやめよう。

やりたいことなんて別にない。

クソリプが飛んでくる有名人になっても別にいいことないっしょ。

……そんな黄泉の世界を生きている。野球をやっているとはいえ、自分たちの限界も知っているので、軟式野球界の制覇なんてことも当然考えていない。

じゃあ何を考えているかというと、「周庭さん大丈夫かな」とか「コロナ全体主義だりぃな」とかそういうことである。そして「なんか面白いことないかな〜」と思って日々を過ごしている。

良くも悪くも初期衝動的な「主体」が消え、無為自然となっている。このまま何も残さず、そのへんの岩とか、自然と一体化する道を歩むのかもしれない。「それでも男か!」という叱咤をしても無駄である。もはや道教的な世界観に突入しているのだから。

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