先日CINRA.NETで公開されていた菊地成孔と湯山玲子の対談が面白かった。
菊地成孔×湯山玲子対談「文化系パリピ」のススメ – インタビュー : CINRA.NET
いや、面白かったというよりも、控えめに同意というか……。
ざっくりいうと、「趣味」というものについて語ったテキストだと思う。
最近、いろんなジャンルにはまり込んでいくオタク女子の生態をレポートした『浪費図鑑』という書籍が売れていてとても面白いのだが、その本の内容を引きながら菊地成孔と湯山玲子はこんなことを言っている。
菊池:以前なら、自分とは別ジャンルにお金をつぎ込む人を、異教徒と見做してバカにしていたところもあったと思うんです。でもいまは、「何がカッコよくて何がカッコ悪いか?」という価値基準もなくなってきているから、「本気で入り込んでいる人は美しい」っていう感覚。
(中略)
湯山:信仰だから「滅私」するのよね。自分を殺し、対象に依存もするし、犠牲も払うし、アイデンティティーと同一化してしまう。
(中略)
菊池:信仰しているくらい対象にのめり込んでいる方が、「エモくて最高」って思われがちなんだよね。チャラくしてると嫌われる。
で、「新しいタイプの趣味人」の「遊び方」がタコツボ化していることと、菊地成孔や湯山玲子のような昔ながらの「チャラい」文化人が対比されていて、前者に対して菊池・湯山は「こういうの(自分たちがやっていること)も楽しいよ」ということを伝えたいのだと思われる。
「NO MUSIC, NO LIFE」という発想がヤバイと思う理由
ちなみに「タコツボ化」という言葉は政治学者の丸山真男が1961年の著書『日本の思想』で最初に使ったもの(たぶん)で、要は丸山以来ずっと繰り返されている日本近代知識人による日本社会・文化批判のステレオタイプであり、ここでの菊地・湯山の論旨ともほとんど同じものだ。
丸山真男が「タコツボ化」批判で対象としていたのは1950年代の日本社会である。このときは、要は「村落共同体から官僚制、企業、学術界に至るまで、日本は無自覚にムラ社会的論理で縦割りに分断されていて相互交通がなく、前近代的だし創造的じゃないからマジでクソ」という趣旨だったわけである。
で、60〜70年代の高度成長を経て、80年代の消費社会(バブル)へと時代は移り変わっていく。
80年代のバブルを謳歌した新人類――菊地・湯山はまさに60年代生まれの新人類世代である――は「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という価値相対主義的な態度で文化を作っていった。
それが90年代という過渡期を経て、2000年代には「(ノリとシラケの往復で洒脱さを演出している場合じゃなくて)マジにならなきゃ勝てねーよ!」(AKB48の2010年の曲「マジスカロックンロール」の歌詞の一部)という「決断」になっていった。
社会学的な議論をもとに整理すると、ここには要はアイデンティティと趣味の関係性の変化がある。人々は村落共同体や企業共同体からもどんどん切り離されて、「砂粒の個人」になっていく。そうなったときに起こるのがアイデンティティ不安だ。家族、地域共同体、企業などに所属していれば、その「身分」が◯◯家の自分、◯◯社の自分、というアイデンティティをもたらしてくれた。
ところがそういった共同体が力を失っていくのと同時に、80年代以降のオタク文化の隆盛などもあって、人々がアイデンティティを準拠する集団としては「趣味集団」が浮上した。このあたりの話を、宮台真司などは「島宇宙化」と表現しているわけである。
やがて、趣味ですらも「決断的」に選択し、その趣味をアイデンティティにする、というのが人々が文化に接する際のスタンダードになった。(なお、このあたりの議論はウルリヒ・ベック『リスク社会(邦題は「危険社会」となっているが誤訳なので「リスク社会」と表記したい)』、アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』、ジョック・ヤング『排除型社会』などを参考にしている)
で、現代におけるタコツボ化とは、異なるジャンル間の相互交通がないという意味ではなく、趣味とアイデンティティを結びつける「新しいタイプの趣味人」が出てきたということなのだと思う。
こういう趣味とアイデンティティのつながりを考えるとき、いつも思い浮かぶのがタワーレコードの「NO MUSIC, NO LIFE」というあのキャンペーンコピーである。あのコピーが出てきたのは90年代後半だと思うが、時代的にはバブル崩壊後で長期不況の入口にあり、一方でオウム真理教事件や神戸連続児童殺傷事件、それと『新世紀エヴァンゲリオン』など、メディア上で若者のアイデンティティ不安の問題が前面化してきた時期だ。
「NO MUSIC, NO LIFE」というコピーは、好きな人も多いからあれだけのロングランになったのだと思うが、個人的には、なんとも息苦しい感覚を言葉にしてくれたもんだなと思う。なにせ「音楽なくして人生なし」である。個人的には、音楽は「あってもなくてもいいもの」「だからこそ素晴らしいもの」であり、音楽だけではなくその他の「文化」といわれるものすべてがそういうものだと思う。ところが「NO MUSIC, NO LIFE」などと言われてしまうと、「あってもなくてもいいもの」という余裕が失われてしまう。
タワーレコードがこのコピーをやった意図は、消費者に「音楽が好きな自分」というアイデンティティを消費させようというものだったのだろう。アイデンティティ不安の時代に、趣味とアイデンティティを結びつけて、音楽を「切実なもの」にすることによって消費を促そうとしたのだ。
しかし、文化に余裕がない、というのは、実は文化の存立そのものを掘り崩しかねない状態である。
いや、もっと簡単に言おう。要は、趣味とアイデンティティが結びついてしまうというのは端的に言ってヤバイのだ。なぜかというと、そもそも趣味というものは余裕がないとできないし生まれない。その趣味がアイデンティティと強く結びついてしまうと、趣味が「切実なもの」になってしまう。「切実なもの」には「余裕」がない。文化の前提となる「余裕」が失われると、趣味という行為が痩せ細ってしまう。だからヤバイ。
ちなみに、ここで言っている「余裕」という言葉は必ずしも財力を意味してはいなくて、心理的な「余裕」も含んでいる。
「道」という隘路
なんでこんなことを長々と書いているかというと、要は「文化」というものの豊かさの前提となるものをきちんと確保したいと思うからだ。しかし、現代の日本人や日本社会はどうしても、先に引用した菊地成孔の言葉を借りるなら「「本気で入り込んでいる人は美しい」っていう感覚」ばかりを美しいものとしてしまう。
これは要は「道」の思想(の現代的誤解)であると思う。柔道、剣道、弓道、華道、茶道……などなど、日本古来の文化芸術――当然ながら非身体的なものだけが文化芸術なのではなく、身体的な武道も文化芸術のひとつだ――は「道」という名が付いていて、現代の我々はその文字に「ひとつのことに打ち込むのは素晴らしいことである」という価値観を(なぜか自動的に)見て取ってしまう。
しかし「文武両道」という言葉もあるように、そもそも「道」というのは単なる「型」のような意味であり、「任意のひとつのことに打ち込まなければならない」という縛りがあるわけではない。武道、ダンス、楽器演奏、スポーツなどには共通することだと思うのだが、ある一定の型を身に着けたあとはむしろ演者の自由な表現を追求していい。一旦「マジ」をやってみてそこをくぐり抜けたあとに、より自由に遊ぶことができるようになる。それが、武道、ダンス、楽器演奏、スポーツをやる人の「それをやる理由」なのだと思う。
で、そういう趣味行為にある程度の自由さが確保されているのは、行為とアイデンティティが実はあまり結びついていないからであると思う。たとえば筆者自身は「野球道」なるものを延々とやっていて、今でも野球はやっているし観戦もするが、「自分は野球が好きだ」「野球オタクだ」などとはまったく思わない。要は、野球は自分のアイデンティティになっているという意識が全然ない。それは「野球道」を一通りやったからである気もするのだが、「趣味」と「アイデンティティ」が結びついていないという感覚が心地よいことは確かだ。
武道、ダンス、楽器演奏、スポーツなどは、そういった「脱アイデンティティ」の趣味としてはわかりやすい。「型」を身につけることによって脱アイデンティティ化していくことができる。趣味とアイデンティティが結びついていかず、むしろアイデンティティが無化されていくので、文化としての豊かさ(余裕)を保ち続けることができる。
で、大きなお世話だと言われようと、筆者の考えとしては、「NO MUSIC, NO LIFE」的な、趣味とアイデンティティがイコールになってしまうことによる息苦しさから逃れて、文化の豊かさを享受していくためには、どのような経路でいくと趣味において「脱アイデンティティ」的な境地になれるのかを考えていくことが大事なのではないかと思う。(了)
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