「諦め」でも「欺瞞」でもない差別感情の扱い方

哲学

どうも栄藤です。前回に引き続き、哲学書を読んでその感想や考えたことを書いていく連載(?)を進めていこうと思います。

今回読んだのは、中島義道さんの『差別感情の哲学』です。

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努力していれば石原さとみと結婚できていたのか

この本で取り扱うテーマは人が持つ差別感情について。

前半部分ではまず、不快・嫌悪・軽蔑・恐怖といった「否定的感情」が差別の原因である、ということが指摘されます。そして後半では、否定的感情と同様に、あるいはそれ以上に差別の動因を形成する「肯定的感情」が取り上げられます。差別の背景には「自分自身を誇りに思いたい」「優越感を持ちたい」「よい集団に属したい」といった「前向き」な願望が張り付いている、というのです。

私たちは自らの人生をより良いものにしたいと願いますし、幸せを手に入れたいと願います。しかしそれは同時に、他人を見下したいという気持ちの裏返しでもある、ということなのでしょうか。

また本書では、身体障害者や精神障害者、被差別部落出身者、在日韓国朝鮮人、性同一性障害社などに対する「特権化された差別」だけではなく、それに比べると些細なことのように思える「能力差別」についても問題提起しています。

肉体的能力や知的能力には言わずもがな差異がありますが、それを認めた上でフェアな戦いを強いるという、アンフェアな状況が当たり前のように存在しています。なにより問題なのは、その戦いに負けた者は「フェアではない」と言うことができない、能力がないことを理由にすることさえ許されない、ということです。

例えば、私は小学生のころサッカー選手になるという夢を持っていましたが、それが叶うことはありませんでした。これに対して、「自分の肉体的能力がプロになる人のそれよりも劣っていたから仕方ない」と言ったとしたら、多くの人が「ずるい言い訳だ」もしくは「努力が足りなかっただけでは?」と感じるのではないでしょうか。

しかし、本当に努力さえ足りていればプロのサッカー選手になれていたのか。努力が足りていればハーバード大学を主席で卒業することも可能だったのか。努力していれば石原さとみと結婚できていたのか――。

不美人がどんなに努力しても美人には太刀打ちできないし、鈍才がどんなに努力しても秀才にはかなわない。しかし、それを知りながら、恋愛闘争において、入学試験闘争において、それを理由にすることがほぼ禁じられているのだ。それを理由にすること、そのことが「負け犬」とみなされるのだ。たとえそうであっても、「努力せよ!」という鞭の音が背後から聞こえてくるのだ。

(出典:『差別感情の哲学』161ページ)

問題は「それを知りながら」という点。能力差があるのを知っているが、直接的な差別をしたくないので、フェアな戦いの結果=「能力」によって「差別」をする。これならば「能力差別」をする側は、社会的な制裁を与えられずに、自分の立場を正当化できてしまうわけです。

「差別感情」と「まなざしの差別」

なぜ差別感情がなくならないのか。それは、人が幸せを望むからであり、人の肉体的・知的能力に差があるからだ――。そう考えると、もはや人々のあいだで差別感情がなくなることはないように思えてきます。

では、その発露さえなければいいのか。つまり、差別感情を持っていながら、あたかもそうではないような顔をして、差別的行動をしなければそれでいいのか。

この問題に対して本書では、差別感情とその表出との境に位置する「まなざしの差別」を取り上げて検討しています。「まなざしの差別」とは簡単に言うと、差別的ではない視線や言葉とは裏腹な、冷たい態度のこと。

被差別者と遭遇したとき、どれだけ巧妙に振る舞ったとしても、「まなざしの差別」が相手に伝わってしまうのだとしたら、そしてそれが被差別者にとってなによりも辛いと思うことであるならば、それはできるならば避けたほうがよいでしょう。

しかし、それを避けるには2つの選択しかないように思えます。ひとつは、自分の差別感情に誠実になり差別を「実行」すること。もうひとつは、差別感情を「追放」すること。

できることなら後者を選びたいところ。しかし、そもそも差別感情自体が「悪」だというわけでもありません。

われわれがある人に対して(ゆえなく)不快を覚え、ある人を(ゆえなく)嫌悪し、軽蔑し、ある人に(ゆえなく)恐怖を覚え、自分を誇り、自分の帰属する人間集団を誇り、優越感に浸る……という差別的感情は、——誤解されることを承知で言い切れば——人間存在の豊かさの宝庫なのである。

(出典:『差別感情の哲学』11ページ)

人が幸せを望み、向上心を持ち、誇りを抱くとき、そこには差別感情が生まれます。そんな差別感情を完全に追放することは、大変むずかしいことのように思えます。

しかし、ある条件下では、少し(良い方向に)変化させることはできるのではないかと思うのです。

リスペクタビリティの区別

この本を読みながら考えていたのは、自分の「差別感情が変化した経験」についてでした。

私は昔、転職支援をするキャリアアドバイザーの仕事をしていたのですが、そのときの経験から、「キャリア」に対しての偏見を持っていました。偏差値の高い大学を卒業し、大手企業で勤め上げた人にこそ(「転職市場において」という意味を超えて)価値がある、というものです。

今思い返すと、当時は学歴が低い人や、転職回数が多い人、うつ病によってブランクができてしまった人、ワーホリで海外にいた人などに対して差別的な感情を持っていました。

では今も私は同じような差別的な感情を持っているのか——。この問いに対して、完全にないとは言えなくても、「同じではない」ということは言えると思います。

差別感情というのは程度問題でもあり、その「程度」を変えることはできると思うのです。

ではなぜ差別感情が変化したのか、を考えてみると、本書の「リスペクタビリティ」についての考察が参考になります。

「リスペクタブル(きちんとしている、礼儀になかっている)であることを自他に期待する我々人間は、リスペクタブルな人間を目指し、リスペクタブルでない他者に優越感を抱く」、とあります。

私たちは、社会的に合意が取れているリスペクタビリティのために、人を羨み、人を蔑み、そして自らのリスペクタビリティを守るため、意図的にリスペクタブルでない他者を創り出すことすらしてしまうのです。

「社会的に合意が取れているリスペクタビリティ」とは、今回の例でいうと、わかりやすく「高収入」に集約されるかもしれません。自分の差別感情の程度が変わったのは、「自分が持つリスペクタビリティ」を「社会的に合意が取れているリスペクタビリティ」と区別できたからではないか、と思うのです。

直接的に言えば「金がすべてじゃない」という価値観。このとき重要なのは「高収入だから何だ! そんなものに価値はない!」という価値観になると、それはまた別の差別感情になってしまうという点です。

例に挙げた私の差別感情の変化は、自ら「変えよう」と意図して変わったものではありませんでした。しかし、やはり差別感情には変えられるものもあるのだと思います。

ただ、具体的な方法があるかと言われると……もしやれることがあるとすれば、自己批判精神を持って自らの差別感情の根底にある「原因」を見つめること。そしてそれがどれぐらい社会的(文化的?)なものに起因しているのか、その程度を考えてみること。

そうすることで何か解決するわけではありませんが、少なくとも「諦め」や「欺瞞」で終わらせるよりは、差別感情と向き合うことができるように感じました。

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