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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を3回読んで、暇なき退屈で苦しまずに生きる方法について考えました。 | にどね研究所

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を3回読んで、暇なき退屈で苦しまずに生きる方法について考えました。

哲学

こんにちは、栄藤です。

哲学の「て」の字も知らない私が、哲学書を読んで感想文的な記事を書いていくという連載の第2回となります。今回の課題本は、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』です。

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現代に蔓延する「暇なき退屈」

この本では、「暇の中でどう生きるべきか」「退屈とどう向き合うべきか」というようなことについて書かれています。

まず前提として、混同されがちな「暇」と「退屈」を明確に区別しています。暇とは、何もすることのない、する必要のない時間であり、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している、と。

その上で本書では、暇である/ない、退屈している/していない、の4項目からなる表を作成します。つまり「暇で退屈している」「暇だが退屈していない」「暇ではなく退屈もしていない」「暇ではないが退屈している」の4つです。

暇と退屈の類型 118p

他の3つと違い「暇ではないが退屈している」という状態は、一見謎めいてみえます。しかし、実は現代の多くの人がこの状態を経験していると著者はいいます。

例を挙げるとすれば、仕事をしているけどなんとなく熱中できていない、という感じでしょうか……。こういわれると心当たりのある人もいるのではないかと思います。なにより、自分自身が今まさにこの状態なのです。

退屈が気晴らしを生むのか、気晴らしが退屈を生むのか

本書ではマルティン・ハイデガーという哲学者の退屈論が取り上げられています。

ハイデガーは退屈について考えるにあたり、まず2つに分けて考えることを提案します。ひとつは「何かによって退屈させられること(退屈の第一形式)」、もうひとつは「何かに際して退屈すること(退屈の第二形式)」です。

彼はそれぞれに対して日常的な事例をあげて説明しています。

第一形式はというと(本当はもっと長い描写があるのですが、かなり短くまとめると)……ある片田舎の駅舎で4時間後に来る電車を待つ間、街道に出て並木の数を数えたり、地面に絵を書いたりしながら過ごす、というもの。

そして第二形式は(こちらも同様に短くまとめると)……招待されたパーティに参加し、慣例通りの夕食を食べ、音楽を聴き、愉快に談笑する。しかし帰宅してふと退屈していたことに気づく、というものです。

第一形式はかなりイメージしやすいし経験したことがあるとはっきりと言えます。これは上の表の「暇で退屈している」に対応するでしょう。

一方で第二形式は、なんとなくイメージできますがどこか謎めいています。やることがあったのに退屈していたという状況……。これこそ「暇ではないが退屈している」に対応します。

つまり現代に生きる私たちは(少なくとも私自身は)、この「退屈の第二形式」に悩まされているということになります。ではこの第二形式とは一体どのようなものなのかーー。

第一形式においては、退屈なものは特定のなにか(到着しない列車)であり、それに退屈させられています。そしてそれに対抗するという仕方で気晴らしが存在しています。

一方、第二形式については次のように書かれています。

第二形式においては、最初、気晴らしが見あたらなかった。分析の結果分かったのは、「何かに際して退屈する」と言われる、この「何か」こそが気晴らしだったということだ。第2形式においては、したがって、気晴らしと退屈とが絡み合っていた。
(出典:『暇と退屈の倫理学』251p)

つまり上の例でいうと「パーティ」こそが気晴らしであり、その気晴らしが退屈を作り出してしまっている、という奇妙な状態です。

人間であることを楽しむ

ハイデガーはこの2つを並べて次のように言っています。「第二形式には『安定』がある。退屈と気晴らしが絡み合ったこの形式を生きることは、『正気』の一種である。また、第一形式に見いだされるのは大きな自己喪失である。第一形式の退屈にある人間は自分を大きく見失っている」と。

第一形式の退屈の中にある人間は時間を失いたくないと思い、焦っています。なぜなら、何か日常的な仕事に強く縛り付けられているからです。

つまり、第一形式のような退屈を感じている人間は仕事の奴隷になっているということだ。それは大袈裟に言えば、時間を失いたくないという強迫観念に取り憑かれた「狂気」に他ならない。
(出典:『暇と退屈の倫理学』242p)

このことから著者は、第一形式ではなく第二形式こそが退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものだと考え、その中の気晴らしを十分に享受することが重要だという結論に至ります。

どういうことかというと……先程、第二形式の事例として挙げた「パーティに参加した人」が退屈を感じてしまったのは、パーティという気晴らしを十分に楽しめなかったからだ、ということです。

イギリスの哲学者ラッセルはこんなことを言っています。「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」。何事も、楽しめるようになるには訓練が必要ということです。

そう考えると、いま自分が仕事で感じている退屈についても見方が変わってきます。仕事(という退屈なもの)によって退屈させられているのではなく、仕事という気晴らしのなかにある楽しさを享受する訓練ができていないのではないかと。

あとがき

本当はここで終わろうと思っていたのですが……最後に、「楽しさを享受する訓練」をどのように行うのか、というのを考えてみたいと思います。

そもそも、楽しくないものを楽しめるようになるために訓練する、というのはなんともおかしな感じがします。正直、楽しくないのだから、強制でもされない限りその訓練は行わないでしょう。

そう考えると、昔はそうでもなかったのに楽しさを享受できるようになったものにはいつも、その始まりに何かしらの「強制」があった気がします。やらなくてはいけない状況に置かれていました。

「昔はそうでもなかったのに楽しさを享受できるようになったもの」として真っ先に思い浮かぶのは受験勉強です。あの頃は、どうしてもある大学に受からなければいけない理由があり、そのために楽しくもない勉強をし、そして徐々に勉強に(厳密には数学や物理に)楽しさを感じるようになりました。

もしかすると、退屈せずに気晴らしを楽しむためには、その始まりとして、楽しくない気晴らしを繰り返し行わざるを得ない状況に身を置く必要があるのかもしれません。

しかし、この考え方にはある重大な欠落があるような気もします。例えば、先ほど例に挙げた自分の高校時代について考えてみます。

受験勉強を強制させられた私は熱意をもって来る日も来る日も勉強に取り組みます。ある日、模擬試験を受けるために少し遠くの街を訪れます。帰り道、電車で帰る途中に近くの駅で人身事故が起こり電車が止まってしまいます。あいにく単語帳などは持っていなかったので、なんとなく携帯を開いてYouTubeを見始めます……。

なんと! 退屈の第一形式に陥っているではないですか! いつのまにか「仕事(受験勉強)の奴隷」になってしまっているのです。

そしてこれはハイデガーが『形而上学の根本諸概念』で出した結論とほとんど変わらないのです。ハイデガーは、「退屈の第三形式」という最高度に深い退屈(「なんとなく退屈だ」というもの)について語り、そこから「決断」の必要を説きました。決断によって自らの可能性を実現せよ、と。

しかし、その第三形式というのは第一形式と通底しているとして、新たな結論を導き出したのがまさしく本書『暇と退屈の倫理学』なのです。

あろうことか、私は本書を3回も読んだにも関わらず、第二形式の気晴らしを楽しむために訓練を行おうとして、そのために「強制」という手段を取った結果、無意識に第一形式に陥ってしまっているのです。

では、どうすれば気晴らしのなかにある楽しさを享受できるようになるのか。そしてそこに訓練が必要なのであれば、その訓練とはどのようにして行えばいいのか。

このあたりの「具体的な行動指針」はこのまま考えるだけでは判明しそうにないので、今後の考えるべき問題として残したまま、次に進んでいきたいと思います。

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