現在、仕事でリサーチ&執筆をやる期間に充てているのが、専門的なことばかりインプットしていると疲れるので、全然関係ないほかのコンテンツを読んだり見たりしている。
そのなかでとても面白かったのがこれ。
「JKハルは異世界で娼婦になった」(※R18なので注意)
これは最近いろんなアニメの原作を輩出している「小説家になろう!」というサイトで連載されていた「なろう小説」のひとつだ。8月後半から、『となりの801ちゃん』で有名な小島アジコ氏の奥様のツイートをひとつのきっかけにして、ツイッターやはてなブックマーク界隈などで非常に話題になっていた。
サイトに記載されている概要はこんな感じ。
小山ハルは少しビッチな普通のJK。同じクラスの陰キャ男子の異世界転移に巻き込まれ、生活のために娼館で働くことになった。コミュ力と図太さを武器に、ハルは夜の異世界を生き抜いていく。
で、この作品の書評が「はてな匿名ダイアリー」で出て、それが非常に話題になっていた。
「なろう小説」っていうのはおもに「現実世界では冴えない男の子の主人公が異世界に転生し、与えられたチート能力を生かして俺TUEEEEしながらハーレムを築く」といったフォーマットに則りつつ、そこで様々な物語のバリエーションが試されていくというものだといってよいだろう。もともとは『ソードアート・オンライン』といったネット発のライトノベル小説などでそのフォーマットが徐々に固まり、アニメ化された『この素晴らしい世界に祝福を!』『魔法科高校の劣等生』『Re:ゼロから始める異世界生活』などがヒット作として知られている。
基本的に「思春期の(陰キャの)男の子の願望を叶える」ということを共通のフォーマットとしながら、そこで様々なメタ的要素を加えて物語を重層的なものにしていくことを競う、という構造のコンテンツ群だと思っている。90年代以降のライトノベルや美少女ゲーム、深夜アニメ、オンラインゲームといった、これまでに日本で蓄積されてきた男の子オタク的イマジネーションがごった煮になって独特の進化を遂げているわけだ。
で、「JKハルは異世界で娼婦になった」は概要からもわかるとおり、陰キャの男の子ではなく、陽キャでクラスの中心にいたビッチ的女の子が主人公になっている。
かなり先を急いで書くと、『JKハル』は上記の男の子オタク的イマジネーションに、かつての『恋空』のような女子向けケータイ小説的リアリティを合体させているわけだ。
ケータイ小説といえば『Deep Love』『恋空』『赤い糸』などが有名だ。2000年代後半にこのあたりの小説を読んだときに僕が思ったのが、「外向的なタイプの少女が、思春期の厨二病的世界観を広げていくと、性的な放埒のほうに行くことが多いのかな……」ということ。誤解のないよう書いておくと、僕自身はそのことに対して別に批判的でもないし、まあそういうものなんだろうな程度に思っている。
で、そのかつてのケータイ小説的リアリティは、むしろスクールカーストでは上位の女の子たちのもので、陰キャ男子のものであるなろう小説的世界観とは明らかに食い合わせが悪そう。でも『JKハル』はそこをうまく繋げて、ネット小説のイマジネーションを次のレベルに引き上げており、非常に面白いと感じた。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』『スター・ウォーズ フォースの覚醒』『クロスアンジュ』『逃げ恥』とも似ている
僕が『JKハル』を読んで感じたある種の爽快さは、たとえばジョージ・ミラー監督の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や、『ガンダムSEED』の福田己津央監督の復活作『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』、それと『逃げるは恥だが役に立つ』に感じたのと同種のものだと思った。これらの作品同様、『JKハル』は――非常に陰惨な性的描写が多いという違いはあるものの――ある種のフェミニズム的感性が結果として表現されているように感じられるのだ。
近年、『怒りのデス・ロード』や、『スター・ウォーズ フォースの覚醒』などハリウッドの大作で女性主人公ものがつくられ、ポリティカル・コレクトネスが非常に重視されるようになってきており、そのことが「ハリウッド映画をつまらなくしている」と言われたりしている。アメリカ国内では特にポリコレの圧力が強まっていて、その反動でトランプ大統領が出現した、と論評されたりとか(わりと乱暴な要約)。
そして日本では『逃げるは恥だが役に立つ』のようなフェミニズム的な物語がヒットしている。一方でこれまで許されていた男性の発言・行動にすぐ槍が飛んでくるので生きづらさが増しているという意見もあったりするというのが現状……だと思うが、個人的にはそれはちょっと違うのでは、と思っている。
というのも、たくさんの映画や漫画やアニメなどを見ている人間としては、あまりに単線的な「男らしさ」にこだわった物語に飽き飽きしている一方で、フェミニズム的な感性を蝶番にした上記の作品群には非常に新鮮さを感じざるをえない。ハリウッド映画や日本の漫画・アニメの製作者たちは、決してポリコレの圧力でそういった物語を作っているのではなく、むしろフェミニズム的な感性を梃子に新しい世界観を作ろうとしている。フェミニズムが目的というよりも、むしろ手段として新たな表現に挑戦していると捉えることもできるはずだ。
そもそも『JKハル』だって、性的描写が数多く、女性たちの虐げられる姿が多く描かれていることから、それ自体がポリティカリーにコレクトなのかというとけっこうアウトである。ただし、これは批判ではない。
前述の『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』なども、『JKハル』ほどではないにせよ性的描写が多かったり、女性キャラが不必要に露出度の高い衣装を着用していたりとか、お風呂シーンで重要なやりとりが行われる確率が高いとか、正直「性の商品化」に反対の立場であれば眉をしかめそうな描写が非常に多いように感じられるわけだが、そういうポリティカリーにインコレクトな表現でありながらも、おそらく男女双方に非常にポジティブな感覚を与えるような物語になっているところが面白いのだ。
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「対話」を描く社会構成主義的なアプローチと、ストーリーテリングの相性
こっからは少しわけのわからないことを書く(※以下ややネタバレありだが問題ないレベルだと思います)。フェミニズム的な感性を挟み込んだ物語の新鮮さは上記のような部分にあると思うのだが、『JKハル』でもうひとつ非常に特徴的なのが、「対話」が描かれるということ。
というのも、すでに書いたように主人公ハルは陽キャのビッチな少女で、一方でもうひとり陰キャでアニメ・ゲーム好きのなろう小説的主人公キャラクターの戯画というか狂言回しとして「千葉」という男の子が登場する。この千葉くんは非常に厄介であり、陰キャのコンプレックスを引きずりながらもチート能力とオタク的知識の豊富さ(この異世界は当然ゲーム的世界なのでゲームの知識が生きる)を生かして俺TUEEEEして現実世界での鬱憤を晴らし、そしてチート能力でモテることからハーレムを築こうとする。逆に、千葉と違ってスクールカースト上位にいたハルはアニメ・ゲームの知識がなく、生きるために仕方なく娼館で働いているわけだが、千葉はハルを買い、自分の奴隷になるように迫ったりもする。
しかし、オタクから「イキリオタク」にクラスチェンジした千葉がずっとうまくいくかというとそうでもなく、チート能力を生かして俺TUEEEEしたいけど努力は嫌いだったりして、やがて壁にぶつかり、強さによって得られたモテもだんだん失っていったりする。千葉はハルの体を買うことはできても、心までは手に入れることができない。
そんなことを繰り返していて、千葉は最後まであまり変わらず、それでも教室で交わることのなかった陽キャと陰キャが会話するようになって、ハルの側も終止、千葉に対する「キモい」という認識は変わらないものの、物語を通して二人のあいだのお互いへの理解は少しだけ変化しているようにも読める。つまり現実の学校世界ではまず関わることのなかった二人が、異世界というフィクションならではの舞台装置を通して対話をするようになり、わずかばかりではあるけれどもお互いへの理解を深めていく。これもやはりフィクションを通してしか想像しえないことではないか、と思う。
これはアカデミックには「社会構成主義」というアプローチに近いものだ。社会学や心理学ではおもに、主観(人がしゃべる言葉や認識)と客観(資料や統計的なデータ)という2つのツールを用いるが、主観だけではそれが「真実」であると判定できないことはもちろん、「客観」とされる統計的なデータだっていくらでも恣意的な運用が可能である。
やや極端な例だが、たとえば南京大虐殺といわれる問題が「ない」と言いたいとき、「ない」という証拠を集めて論証し、「ある」というデータに対しては「それは恣意的な資料であり信用できない」と言ってしまえばいいわけだ。そうなったとき「ある」「ない」双方の議論は絶対に噛み合わず、平行線に終わってしまう。しかし、一旦「絶対の真実」という考え方を脇に置いて、「ない」側がなぜ「ない」と考えるのか/考えたいのか、「ある」側はどうなのか、という目的や動機がどのように形成されてきたかをお互い吟味することができれば、議論を少しだけ前に進めることができる。
▲社会構成主義ついては、この『あなたへの社会構成主義』という入門書がおすすめ。題名がうさんくさいし高いし分厚いが、非常に読み応えがある。原題は『An Invitation to Social Construction』。
もちろん上に書いたことはあくまでも理想的な状態であり、現実にはなかなかそうもいかない。だが、フィクションという蝶番を挟み込んだときに、「対話」ができている状態とはこういうものだ、という想像を働かすことができる。この『JKハル』も、異世界という舞台装置を通してフィクションならではのイマジネーション豊かな「対話」の表現ができているのではないか。で、むしろそれはフィクションが担う重要な役割なのではないか、fmfm、と勝手に納得した、という次第。とにかくおすすめです。(了)
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