さて、これまでノルベルト・エリアス、エリック・ダニング『スポーツと文明化』について解説してきました。今回は6回目です。
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近代スポーツの貴族性
『スポーツと文明化』はエリアスと、弟子のダニングの共著というかたちをとっている。後半からはダニングがしばしば登場するが、ここからはダニング単独で執筆した章「近代スポーツの力学――業績争いとスポーツの社会的意味に関する見解」を見ていきたい。
ダニングは、トップレベルのスポーツにおいて1.競争的姿勢の増大 2.関わり合いの深刻さ 3.業績思考がもたらす傾向、の存在を指摘している。
わたしが言及している傾向とは、「アマチュア的」態度、価値、構造が漸進的ではあるが表面上は容赦なく侵食されていること、およびプロフェッショナルという言葉のあれこれの意味での「プロ的」態度、価値、構造によってそれなら相関的に取って代わられていることを意味する。さらに別の角度から見れば、それは世界中の国々でスポーツが、さほど重要でない価値の低い制度から、重要でもっと価値の高い制度に、つまり、スポーツが日々の人々の生活における一体感、意味、満足感の重要な――最も重要とはいえないまでも――源のひとつになったという意味で、多くの人々にとって宗教的、あるいは擬似宗教的な重要性をもっているように見える制度に変化している傾向である。
エリック・ダニング「近代スポーツの力学――業績争いとスポーツの社会的意味に関する見解」『スポーツと文明化』299ページ
スポーツの非常に不思議な点のひとつは、プロの世界のスタープレイヤーが年に何十億円という収入を稼ぎ出す点である。スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグのような起業家であれば、新しい製品やサービスを開発し、イノベーションで人々の生活を便利にしているので、ある程度の高い報酬をもらうのも、まあ納得できるところがある。しかしスポーツ選手は、具体的に何かを生み出しているわけではないし、イノベーションを起こしているわけでもない。自分が身体的に動き、それを見せているだけである。なのに、なぜ彼らにそれほどの報酬が支払われるのか。たとえばケインズの言う「美人投票」のような資本主義的なメカニズムで決定されている部分は大きいだろうが、市場原理だけで説明しきれない価値――「宗教的、あるいは疑似宗教的な重要性」――も、大きな要素を占めているかもしれない。
ダニングは、西ドイツ(当時)のマルクス主義スポーツ社会学の草分けである B.リガウアーの論を以下のようにまとめている。
近代スポーツは「ブルジョワ的」産物であり、もともと自分たち自身の楽しみのために支配者階級の人々によって追求された娯楽である、とかれは主張する。かれらにとって、スポーツは労働の対立物として機能したが、産業化の増大とともに、さらにスポーツが社会階級の下の方へ普及するにつれて、労働の特徴によく似た特徴を帯び始めるようになった。かくして、産業社会における労働の形態のように、スポーツは業績争いによって特徴付けられるようになるとリガウアーは主張する。
エリック・ダニング「近代スポーツの力学――業績争いとスポーツの社会的意味に関する見解」『スポーツと文明化』308ページ)
スポーツはもともと労働という「やらなければいけないこと」の反対物、遊びや余暇の一部という性格があった。そもそも貴族階級のものであり、日本においての普及当初も裕福な家庭の子弟たちによって興隆した。それが労働者階級へと主体を移すと、「遊び」であったものが「労働」になっていく。労働になっていくと、今度は「疎外」が生じ、抑圧的なものになっていく――。それがリガウアーの見方である。
いわゆる日本型教養主義では、文学部こそが「奥の院」だった(竹内洋『教養主義の没落』)。竹内によれば文学部は「農村的」であり、文学部のキャンパスカルチャーの基調をなすのが教養主義で、それは身体的なものではなかった。スポーツには身体的な資本が必要とされる。しかし、教養主義にそのような資本は要らず、「読書によって教養を身に着けることによって立身出世を果たす」ということが可能だと、少なくとも信じられていた。
スポーツを楽しむには、幼少期から食生活に恵まれていたりカラダを動かす機会があったり、スポーツ用品を買うことができるなど、お金が必要になる。一方で、読書はそれほどお金のかからない余暇である。文化資本の用いられ方の違いというのも、たしかにあるだろう。
疎外をまねく「分業化」という問題
リガウアーの分析に、ダニングはさらに次のように続ける。
かれらにとって、スポーツは労働の対立物として機能したが、産業化の増大とともに、さらにスポーツが社会階級の下の方へ普及するにつれて、労働の特徴によく似た特徴を帯び始めるようになった。かくして産業社会における労働の形態のように、スポーツは業績争いによって特徴付けられるようになる、とリガウアーは主張する。これは記録を破ろうとする衝動、記録を破る目的に当てられる厳しいトレーニングの時間、技能向上の目的に適用される科学的方法などに見られる。さらに「インターバル」トレーニングや「サーキット」トレーニングのようなトレーニング技術は、流れ作業的生産の「疎外化」や「非人間化」を促す性格を模写している。「個人的」なスポーツにおいてさえも、スポーツ選手の役割は、トレーナー、コーチ、監督、医者などの集団全体のなかの役割に減じられる。それは、近代のスポーツ選手が固定された分業に組みこまれ、規定された戦略計画の要求に応じざるをえないチーム・スポーツでは二倍も明らかな傾向である。この計画を実行する際に、スポーツ選手は自分自身で役割を演じることはほとんどないのである。
選手がイニシアチブを行使する余地は同様に減る。それは、スポーツの運営についていえば、もっと当たっている。というのは、選手たち自身ではなく、専任の役員たちが政策の問題を決定する役割もますます担っているからである。その結果、個人的な決定の余地が着実に狭められ、官僚エリートが大勢の人間を支配する、とリガウアーは言う。
エリック・ダニング「近代スポーツの力学――業績争いとスポーツの社会的意味に関する見解」『スポーツと文明化』308-309ページ
こうした見方は、スポーツを害悪をもたらすものとして論じるには十分なものである。もっとも、スポーツにより報酬がもたらされること、強制的であることによって生じるプラスの可能性にも注意を払う必要はあるだろう。スポーツという非生産的な行為に従事することによって報酬がもたらされるというのは、すべてが有用性で評価されない世界が現出しているということでもあるのだから、ある意味では人類社会の進歩でもあるような気もしてくる。
またスポーツにまつわる「強制」は、自由放埒にならずに統制がとれるというメリットも、もしかしたらあるかもしれない。というのも、まったくルールなきカルチャーは混沌としたものになり、どこかで急に、風船から空気が抜けるようにしぼんでいってしまうこともありうるからだ。
ホイジンガの「真面目」に関するダニングの批評
ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』において近代スポーツが過度の「真面目」に陥っていることを批判的に描き出した。彼は、スポーツの主な担い手が、貴族から労働者へ移動することによって「遊び」や「創造性」の精神が失われていく――つまり「文化性」を失っていくことを指摘した。
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