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『電影少女 -VIDEO GIRL AI 2018-』1-2話感想:90年代リバイバルとの距離感 | にどね研究所

『電影少女 -VIDEO GIRL AI 2018-』1-2話感想:90年代リバイバルとの距離感

カルチャー

今月から始まったテレ東のドラマ『電影少女 -VIDEO GIRL AI 2018-』、地上波ではまだ1話が放送されただけだが、Amazon Primeで2話まで先行公開されているので観てみた。で、結論からいってかなり面白いと感じた。

電影少女-VIDEO GIRL AI 2018-

▲Amazon Primeで全話視聴可能/テレ東の番組ホームページはこっち

本当は『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』や、このあいだ最終回を迎えた『おんな城主直虎』、それと今年の大河『西郷どん』、ネトフリ限定のアニメ『DEVILMAN crybaby』などについても書いておきたいのだが、たぶん今回の『電影少女』についてはまだネットで批評とかがあまり出てないと思うので先にこっちをざくっと書いてみたい。(あと、仕事の原稿も地道に進めていますが、すみませんがこの文章は息抜きです……)

「90年代リバイバル」とどう向き合うか

『電影少女』と『I”s(アイズ)』の関係

『電影少女』は1989年から92年にかけて「週刊少年ジャンプ」で連載された桂正和によるSF恋愛漫画で、今回のドラマ作品『電影少女 -VIDEO GIRL AI 2018-』は舞台を2018年に設定したリブート作品である。

桂正和は『電影少女』の連載以降、90年代半ばには『D・N・A2』『SHADOW LADY』『I”s(アイズ)』などジャンプラブコメのフォーマットとなる作品を作っていった。まあ最近だと、アニメ『TIGER & BUNNY』のキャラデザのほうで有名になってしまった感もある。

で、桂正和作品のなかで一番有名なのはおそらく『I”s(アイズ)』なのだと思う。それ以前の桂正和はどちらかというとSFと恋愛要素(またはお色気要素)を絡めた作風が特徴で、特に影響源としては70-80年代の日米の特撮作品(戦隊モノやアメコミ)やハリウッドのディストピアSFが挙げられる。

ただ、桂正和が90年代ジャンプでいろいろ連載を進めていくなかで、おそらくジャンプ編集部はアンケートなどで「SF・特撮要素を抜いてラブコメ要素にフォーカスしたほうがいい」ということになって、そこで始まった作品が『I”s(アイズ)』だったんじゃないかと僕は思っている。

つまり、『I”s(アイズ)』は桂正和の作品のなかで最も有名ではあるが、ちょっと異色なのだ。で、僕は、桂正和の作家性がもっともよく発揮されたのはそれ以前の『電影少女』だったのではないかということを思っている(ちなみに個人的に一番好きな作品は『SHADOW LADY』だ)。

「90年代リバイバル」と「透明な螺旋階段」

それで今回のドラマ化である。今は特に登美丘高校ダンス部などに象徴的なように、バブル期にあたる80年代後半〜90年代前半のカルチャーに対する若者世代からの注目が高まっていて、「90年代リバイバル」とか言われたりしている(1)。

(1)よくある誤解としてバブル期=80年代というイメージがあるが、バブルの象徴のひとつである「ジュリアナ東京」の開店は91年だし、「バブル崩壊」という現象は91-93年だがいきなり景気が急降下したわけではなく、2000年代に向かって緩やかに後退したので、「バブル的なるもの」には90年代の文化も多く含まれると筆者は考えています。

で、こうした「90年代リバイバル」の状況に対して、「年長世代(団塊ジュニアからアラサーぐらいまで)のノスタルジー、エゴの押し付けではないか」と警鐘を鳴らす声も(おもに年長世代自身から)けっこうあるようだ。

ちなみに僕自身も仕事で以前、「90年代リバイバル」をテーマに記事を作ったことがある。→「日常着としてのアウトドアウェア」はなぜ定着したのか? ――アメカジの日本受容と「90年代リバイバル」から考える(BEAMSメンズディレクター・中田慎介インタビュー)

このときはBEAMSの中田慎介氏に主にファッションカルチャーについて取材したのだが、結論としては「90年代カルチャーが2010年代的にアップデートされている」という至極穏当な話だった。

そもそも「カルチャーは20年周期で繰り返される」ということがよく言われている。実際、米国ならレディ・ガガ、日本ならPerfumeが象徴的だったと思うのだが、00年代は(後半は特に)80年代リバイバルの時代だったし、2010年代後半に「90年代リバイバル」が起こるのは文化史的に考えて当然のことだと思う。

で、BEAMS中田氏の取材記事にあることを自分なりに要約すると、文化史の発展とは透明な螺旋階段のようなものだと思っている。つまり、上から見て20年前と同じ位置にいたとしても、そこにはやはり現代的なアップデート(階の上昇)が必ず含まれており、表面的な「20年前と同じだしノスタルジーじゃないの?」という〈警鐘〉は、あまり意味がない。何がどれくらいアップデートされているかの分析がないまま、単に「ノスタルジーでは?」「年長世代のエゴでは?」と警鐘を鳴らすのは、まったくもって無意味なものだ。

やや先を急いで書くと、「90年代リバイバル」という状況に対して「ノスタルジーでは?」「エゴでは?」という批判が年長世代から出てくるのは、むしろ彼ら(アラサーである筆者自身も含む)の自信のなさ、または「今の若者に媚びなければ」という焦りの現れだと思っている。

カルチャーギャップコメディとしての『電影少女 -VIDEO GIRL AI 2018-』

で、まさに90年代前半の作品である『電影少女』が今回2018年にドラマ化された。当然「年長世代による90年代カルチャーへのノスタルジー、または若者世代への押しつけではないか」という懸念があったのだが、2話まで見たところ、そういった懸念点をきわめて巧みにクリアした作品になっていると思う。

今回のドラマ版『電影少女』は、乃木坂46の西野七瀬が物語の中心となる「電影少女(ビデオガール)」、つまり「VHSビデオ(!)を再生すると画面から出てきて、心のピュアな少年の悩みを解決するバーチャル美少女」を演じる。まあ、背景にはひとことで説明するのはちょっとむずかしいSF設定があるのだが、要は初音ミクが「貞子」みたいな感じで実体化したものである(もちろん時系列としては『電影少女』のほうが先で、『リング』のほうが後で、初音ミクもそのさらに後だが)。

SF設定としてはそんな感じで原作を忠実に受け継いでいるのだが、全体的な立て付けはかなり現代の若者のほうを向いている。野村周平、飯豊まりえ、清水尋也がメインで、この高校生三人は一緒にアニメ制作をしているのだが、実は恋愛的に三角関係でもあり、また教室内の関係やSNSなど複雑な自意識や人間関係に絡め取られる典型的な「今っぽい」若者たちである。この3人の前に、90年代で感覚が止まったままの「ビデオガール」が現れて、いろいろ掻き回すというストーリーになっている(「なんで水に金払ってんだ」とか、ホットドッグプレス(?)のくだりは笑ってしまった)。

1、2話を見て面白いと感じたのは、このドラマ版『電影少女』はカルチャーギャップコメディとして作られているということだった。カルチャーギャップコメディというのはたとえば『テルマエ・ロマエ』や『マイティ・ソー』のように、異世界の人間が現代社会にやってきていろいろ戸惑ったり、現代の人間たちを引っ掻き回して笑いを起こしたりして現代社会を諷刺するという物語ジャンルである。

テルマエ・ロマエ

つまり、今回のドラマ版『電影少女』は、西野七瀬演じるビデオガール「天野あい」を単に懐かしむのではなく、90年代的な感覚をそのまま持って現代にタイムスリップしてきた、しかも「傷ついた少年を癒やす」という特殊な使命を帯びたヴァーチャルアイドルが、硬直しきった現代の若者の人間関係を引っ掻き回すという内容になっている。

西野七瀬の「棒」が上手く作用している

観ていて最初に非常に引っかかったのが、西野七瀬のまさに「棒」としか言いようがない演技である。この30秒予告編を観るだけで、その「棒」ぶりがわかると思う。本編でもこのまんまだ。

ただ、これは観ていくとだんだん慣れるというか、そもそもビデオガールは現実の現代社会にとって完全なる「異邦人」なので、むしろ「棒」でなければおかしいという感覚にすらなってくる。「あい」と対峙する「現実の高校生」である野村周平、飯豊まりえ、清水尋也の三人は演技力のある俳優なので、余計に西野七瀬の「棒」がよい意味で「浮いて」きて、有効に機能している。アイドルドラマとしてもなかなか上手い発想だと思う(2)。

(2)ちなみに、現代社会において90年代的なキャラクターが「浮く」ということの意義、スクールカースト的なリアリティについては以前このエントリで書いたのでぜひ読んでみてください。→共感力を重視せず〈同調力〉ばかり求める社会ではYUKIのような天才は生まれない

しかも、筆者のようなアラサー以上の人が見ても楽しく観られるように作られている。原作オマージュが、本当に押し付けがましくない範囲でさりげなく散りばめられているのだ。オマージュの散りばめ方から、制作陣は原作をかなりリスペクト(尊重)していることが感じられた。

しかも2話まで観た段階で今回のドラマ版はスピンオフではなく、明らかに「原作の正当な続編」である。なので原作ファンは絶対に観たほうがいい。かといって、原作を知らなければ楽しくないわけでもない。予備知識がないまま観て楽しめるのでそのへんは大丈夫。

『DEVILMAN crybaby』――古いIPを活用するということ

今年の初めからNetflixで『DEVILMAN crybaby』という作品が配信され好評を博している。この作品もやはり永井豪の名作漫画である『デビルマン』を現代風にアップデートしたものである。こうした取り組みは、「ノスタルジーではないか」「年長世代のエゴの押し付けだ」とか、年長世代の側がむしろ積極的にネガティブなことを言いがちである。ただ、『DEVILMAN crybaby』を観たあと、僕は未読だった原作を読んだりもした。こういうことはおそらくもっと若い世代の視聴者もけっこうやっていると思う。

Devilman Crybaby | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト

今、コンテンツ業界では「新しいIP(知的財産)がうまく作れない」ということを嘆く声が結構ある。でも、むしろ「新しいIPを生み出さないといけない」という焦りこそが問題であるようにも思う。「昔のIPの何が良かったのか」をよく分析したり、「現代で失われてしまった要素はなんだろうか」という「差分」をしっかり観察した上でなければ、現代に通用する新しいIPは生まれないんじゃないか。まずは「透明な螺旋階段」の構造をよく観察することが必要ではないか。自分たちの文化的原点や、やることに対して「ノスタルジーではないか」「若者世代にエゴを押し付けていないか」というような自己点検をする前に、もっとやるべきことがあるのかもしれない、ということを思う。

それと、このドラマ版『電影少女』を観て興味を持った若者世代の人は、ぜひ原作を読んでみることをオススメしたい。SFラブコメとしては一時代を作った傑作なので、読んで損するなんてことは絶対ない。描写は多少古くても、ちゃんと楽しめる作品になっている。桂正和はめちゃくちゃ絵が上手いが、それはこの『電影少女』あたりから完全に確立されている。

今後の展望など……

ここからは2話までのややネタバレを含みます。なのでもしこれからドラマを観る人、原作未読の人はリターンしてください。

 

まず、西野七瀬が「天野あい」であることがかなり気になっている。そもそも漫画では「天野あい」は最終的に実体化したわけだが、ドラマ版でも旧主人公・ヨータの相手としての「あい」がたしかに存在していることが示唆されている。そうなると、西野七瀬の「あい」は一体誰なんだろう? このあたりが今後の物語のキーポイントになってくるはずで、制作陣はなかなか高いハードルを自らに課しているが、ここをどう乗り越えるかが見ものだと思う。(了)

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