昨日「東洋経済オンライン」にUPされていた、男性学の田中俊之先生のコラム「「オレ自慢」が近年増殖するのにはワケがあるリアルでもネットでも“アピール“する男たち | 男性学・田中俊之のお悩み相談室 – 東洋経済オンライン」が面白かった。
職場の同僚の「オレすごい」に悩まされる女性相談者からの相談に答え、なぜ男性一般は「オレすごい」を言いがちなのかについて解説されている。
「男性学」は、女性学の盛り上がりを受けて90年代以降に確立されていった学問で、2010年代半ば以降になってからは一般にも注目されつつある。なのだが、この男性学は、フェミニズムの一般への浸透を受けて、「男性の権利」を「獲得(または奪回)」しようとする反動的な動き、と見られることもある。
そのことについて詳しく解説しようと思うととても長くなりそうだが、ひとまず言えるのは、男性学はそもそもの起源からして、女性学へのカウンターではなく、女性学やフェミニズムの流れのひとつとして生まれたものだということ。
▲田中俊之氏の『男がつらいよ絶望の時代の希望の男性学』。男性学について知りたい方には入門書としておすすめ。
で、最初に挙げた記事では、男性の「オレすごい」の背景に、幼少期から〈競争〉に晒されてきた影響が指摘されている。
で、「でも、進学や就職など〈競争〉に晒されてきたという意味では、男女関係ないのでは?」という反論がありえると思うのだが、そのことについてちょっとだけ具体的な例を挙げながら書いてみたい。
▲いらすとやのイラストを一度使ってみたかったので、サムネイルに使用させていただきました
Manspreadingとはなにか
「進学や就職など〈競争〉に晒されているのは男女関係ない」というのは、それはそのとおりだと思うのだが、ここで問題になっている〈競争〉というのは、そういうわかりやすい競争ではないと思うのだ。
言ってしまえば、もっとレベルが低い〈競争〉である。
たとえば英語圏では「Manspreading(マンスプレッディング)」というものがちょっとした問題になっているらしい。
「Manspreading」とはWikipediaによれば、「公共交通機関において男性が開脚座りを行うことを指す」。これがソーシャルメディア等で批判されているとのこと。
▲いらすとやにちゃんとそういう画像があって、いらすとやマジ有能だと思いました
で、Wikipediaにはこんな記述もある。
反マンスプレッディングの活動家は立たなければならない他の乗客に対して無礼で配慮に欠けるマンスプレッディングを批判しているが、男性に焦点を当てて自分の荷物を置くために複数の座席を占有する女性の存在を無視していたり、空席がたくさんある時にもmanspreaders(マンスプレッダーズ)たちに公の辱めを与えていることから逆にカウンター批判されている。このことはジェンダー関連とは対照的に生理的な問題ではないかと指摘されている。
ここで言われている「生理的な問題」というのは要は、男性には股のあいだに障害物(?)があり、足を閉じて座るとその部分が圧迫され不快だから、ということ。
だが、きわめて平均的な身長・体重の成人男性としては、電車の座席の一人分のスペースをはみだして足を広げなければ不快だ、とは別に感じない。
それでも男性がManspreadingをしがちなのには別の理由があって、要は少年期から「オラつかなければいけない」というプレッシャーがあると思うのだ。
「オラつき」に規定されていた男子の制服ファッション
僕は中学で男子校に入り、電車に乗って学校に通っていたのだが、中2〜中3の頃に一部の友達が、電車に座る際にわざと足を広げて座るようになったのを見て、よくわからないけど自分もやってみるようになった。自分でもなぜそれをやらなければいけないかよくわからなかったのだが、今考えるとあれは要は「ナメられてはいけない」というための「威嚇」だったのだと思う。
男性はローティーンくらいから「社会的な目線」を意識し始める。ここでいう「社会的な目線」とは、「他者と協調しマナーよく振る舞う」とかそういうことではなく、シンプルに「自分は他人から見られている」という意識であり、そのことを意識した結果、これまたシンプルに「他者を威嚇する」という行動に出てしまう。「基本的に男子中学生は(良くも悪くも)愚かな生き物である」という理解は重要である。
で、それは結局、友達関係からの影響だったりする。男子中学生世界においては「ナメられる」ということが最大の恥辱である、と考える人達が体感的には4割くらいいる。その彼らが相互に影響しあった結果が、学校世界以外の場面=「公衆の面前」ではManspreadingとして現れる。成人以降も反省することなく続けている人がいるのは、「男の子」的な意識を引きずっているからなのではないかと思っている。
ちなみに僕の中学・高校は制服が学ランであった。で、中学2〜3年くらいから「学ランの第1〜第2ボタンを開ける」というファッションが(先輩たちを真似て)流行し始める。冬などはマフラーを巻いて登校するわけだが、なぜかYシャツの襟にマフラーを巻いてその上から学ランを羽織り、意地でも第1〜第2ボタンを開けた状態を維持しようとする人もいた。
今思うと、学ランの第1ボタンまで留めてその上からマフラーを巻いたほうがかわいいし、現代ではそちらの方が一般化している。しかし、特に2000年代前半までの男子中高生の制服ファッションは「きれいにまとめる」というよりも「不良っぽく着こなす」という方向に流れていたように思う。
そもそも、彼らの当時の人生の目的の一つは「女子にモテたい」ということだったはずなのだが、女子中高生の目線からみて「学ランの第1ボタンを開けていない男の子はダサい」という価値観は別になかったと思われる。ギャル系などの一部を除いて、どちらかというと多数派からは「きれいにまとめる」という方向性を支持されたのではないかという感がある。
しかし、彼らのあいだでは、そういう「女子受け」よりも、どちらかというと「学ランの第1〜第2ボタンを開けることにより不良性(今の言葉で言う「オラつき」)を持ち合わせていることをアピール」し、「男子中高生世界でナメられないようにする」ということのほうが優先されていたように思う。
男子校というのは今思うと、まさに「男世界」と「ティーンならではの愚かさ」が凝縮された世界だった。それが先鋭化してヤンキー的世界に片脚を踏み入れていくと、奇妙なファッション文化も生まれていく。まあ一番わかりやすい例が「腰パン」であったと思うが……。
いわゆるホモソーシャルな世界の先鋭化は文化として面白いものを生み出すが、それがホモソー世界の外部=世間にたまたま沁み出してしまうとManspreadingのように問題化されていくのだろう。
で、結局ホモソー世界は――非常にレベルの低い意味での――〈競争〉に支配される世界である。そこには、まとめると以下のような問題があると思われる。
・〈競争〉が息苦しい
……勉強やスポーツならまだしも、「ナメられないように」という競争は馬鹿馬鹿しいが、その馬鹿馬鹿しいものによって行動や言動が規定されてしまう。
・美的センスが磨かれない
……すでに書いたマフラーや第1ボタン問題、腰パン問題などに代表される、本人を幸せにしてくれるであろう目的(モテる)から逆に離れていく行動を行ってしまい、結果的に本人にメリットになっていない。成人以降の美的意識の形成にも、もしかしたら悪影響を及ぼしているかもしれない。
・以上のような構造的問題が当人たちに自覚されていない
……結局、幼少期から両親や周囲から「男らしさ」を陰に陽に求められ、「ナメられてはいけない」という価値観を形成してしまうことに問題があり、またその問題を構造的に自覚できるような機会にまったく恵まれない。
ちなみに「男子校はジェンダー教育のエアポケットになっている」という実証研究もあったりする。しかし問題は男子校だけに限られるわけではない。こういったティーンエイジャー男性を束縛している身近な問題から彼ら自身が自由になるためにこそ、ジェンダー的な構造に対する理解を深めていくというのはとても大事なことだと思う。
とはいえ一方で重要なのは、ホモソーシャルな世界の独特の面白さもあるという視点だ。他者を圧迫したり、自分を不幸にしないかたちでホモソーシャル的なもののポテンシャルを引き出す方法もあると思うが、それについては別の機会にどこかで書きたい。
(おわり)
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