もう6、7年前になるだろうか、NHK教育(Eテレ)でマイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」という番組が好評を博していたが、その後継として「スタンフォード白熱教室」という番組が放映されていた。
内容は、スタンフォード大学でコンサルティングやイノベーションなどについて教えているティナ・シーリグ教授が、少人数制の授業で学生たちにチームを組ませ、色々なプロジェクトを進めるというものだった。そこでグループワーク(グループディスカッション)のコツが紹介されていた。
どういうものだったかと言うと、誰かが発言した後に次の人は「But〜(しかし〜)」と言うのではなく、「Yes, and〜(そうだね、それと私は〜もいいと思う)」と言った方が活発な議論ができる、というものだった。これはなかなかわかりやすい教え方であると思った。
▲ティナ・シーリグ氏の最新邦訳著書『スタンフォード大学 夢をかなえる集中講義』(CCCメディアハウス、2016年)
大学のゼミで知った「議論を生産的に行うためのルール」
この番組を観ていた当時僕はまだ大学の学部生だった。僕の大学では3年生からゼミが必修だったのだが、何の考えもなく体育会系サークルに所属しており、周囲にあった「ゼミにやる気を出すというのはガチ感があってかっこ悪い」という謎の価値観に流されて、これまた何も考えずに、あまり負担の大きくないと噂のゼミに入ってみた。
しかし、いざそのゼミに行ってみると、周りの学生が本当にやる気がない。「果たしてこれでいいのだろうか?」と、はたと考え、ダメ元で、学部で最も辛く厳しいと言われるゼミの先生に「サブゼミとして参加させてもらえたりしないでしょうか?」ということを聞いてみた。実は前年度にこの先生の授業を受けていて、なかなかガチ感がある内容だけど面白いなと感じていたのだった。で、そうしたら「とりあえず参加してみなさい」という事だったので参加するようになった。幸い履修登録の直前だったので、単位認定ももらえることにもなった。
ちなみに最初に入ったゼミは、だんだんとその先生と個人的にいろいろ議論ができるようになったのでそれ自体は楽しかったのだが、いかんせん周りの人たちのモチベーションが非常に低く、「マジになるのはかっこ悪い」という悪しき意味での大学生的価値観に支配されていたので、最後までゼミでの議論は活性化しなかった。
でも、後で入ったほうのゼミでは非常に議論が活発で、そこで議論のコツのようなものはいろいろ学べた気がする。
まず何といっても抑えておきたいコツのひとつは、「自分の発言が批判されたからといって人格を否定されたと思わないこと」である。基本的にゼミというのは議論をする場なので、いろいろと言葉を選んで婉曲的に表現する必要はなく、全力でロジックとロジックをぶつけることができる。もちろんそれだと日本の会社組織とかビジネスでは通用しないだろうし、非常にバーチャルな場ではあったとは思うのだが、要は様々なプロジェクトを進めていくときのディスカッションの予行演習にはなった。
で、最初に挙げた「But〜(しかし〜)」と言うのではなく、「Yes, and〜(そうだね、それと私は〜もいいと思う)」と言うというのも重要なコツのひとつである。ちなみに、仕事の会議とかで僕が不思議に思ったのは、最初に挙げたような「But〜」ばかり言う人が普通に存在するということである。最初は「なんでそんなに何でもかんでもネガティブなことばっかり言うんだ……」「全然、議論が生産的にならないのに……」とドン引きしていたし毎回のように気落ちしていたのが、それはその人たちがちゃんとしたディスカッションの訓練を積む機会がなかっただけだと、今では思う。
「発言の批判は人格批判ではない」というのは基本中の基本だが、そんなことは当然知らない。また「But〜」論法はイコール「相手の言葉を頭ごなしに否定して対案を示さない」という態度表明であり、それは議論におけるルール違反であるということも知らない。単にルールを知らないのであれば、ディスカッションというゲームをともにプレイすることはできない。要するにサッカーで手を使ったり、ラグビーで前にパスしたりしている人たちなわけである。
トートロジーのようだが、「But〜」しか言わない人はなぜ「But〜」しか言わないのかというと、「反対するのであれば対案を示さなければいけない」というルールも知らないし、「そもそもBut〜よりもYes,and〜方式のほうが活発な議論になる」ということも経験していない。単純に、誰かの企画や提案に対して単に表面的に「ダメ出し」をする以外に、自分の存在意義を示す方法を知らないので、無意識にそうしてしまっているだけだったのだ。
そしてさらに、そういう人たちは「表面的なダメ出しなら誰でもできる」という理解がディスカッションにおける前提であることも知らない。ちゃんとしたゼミなどで議論の練習を重ねていれば、人の意見に表面的なダメ出しやツッコミをすることがいかに簡単かを身をもって知ることになる。しかし、そういう経験がない場合は「ダメ出しだけでは何の生産性もない」ということを知る機会もない。で、逆にたまたまそういう機会に恵まれた人は、「But〜」論法の人に対して苛立ちを募らせる(なんでこういう基本的なことすらわかってないの!という)が、そもそもそういう気付きを得る機会がない人もいるのだから苛立っても仕方のないことだったのだ。
僕個人はたまたまゼミなどそういうことを訓練する機会に恵まれたが、実はよっぽどカンのいい人でなければ、こういう議論のコツを直感的に理解して、部活やサークルや仕事の会議、それに類するものを円滑に運営することなど、なかなかできないのではないか。
おまけに、議論を円滑にするためには、基本的にその会議の参加者が「議論のコツ」を知っている人が多数派でないと厳しい。議論のコツを知らない人が過半数を占めると、その会議の生産性はダダ下がりするのだ。なぜならそういう人は、他人の足を引っ張ることによって自分の存在意義を示そうとするからだ。
ここに逆に、文系の大学教育、特にゼミナール教育が非常に意義があるということがよくわかる。というか日本のほとんどの学校教育では、単に「空気を読む」と言うことぐらいしか教えていないから、仕事の場などではまともな議論ができないし、生産的な組織運営ができないのは当たり前なのだと思う。そしてここまで暗に書いてきたように、ちゃんと意味のあるゼミナール教育を受けることができた学生は、おそらくかなり少ない。僕が大学教育を受けた、「ゼミの一橋」と言われる一橋大学の、とりわけゼミが重視されていると言われている社会学部ですら、そういう教育にアクセスできた人はほんの一握りなのだ。
ちなみに議論ができるという事と、企画や提案ができるというのはまた別の話である。で、企画ができるというのは単にプレゼン能力があるとか、そういうことではないと思うのだ。でも結局は、議論と同じで、様々な知識であったりツールを使いこなすことで誰でもある程度はできるようになるはずだと僕は思う。
「鋭いっぽい意見」を言えるようになるには?
ちなみに「鋭いっぽい意見」を言えるようになるにはどうすればいいかというと、とにかく間違ってもいいからまずは意見を言ってみる、その勇気を持つことである。というか「トンチンカンな意見を言って他のメンバーに華麗に流され、数時間後に自宅のベッドの枕に顔を埋めて足をジタバタさせる」――そういう経験を何度も繰り返さなければ人間は進歩しない。「沈黙は金、雄弁は銀」というのは、少なくとも成長段階の人間にとっては嘘であると思う。
恥ずかしい思いをし、枕に顔を埋めて足をジタバタさせ、「もうダメだ……消えたい……」という思いを何度も経験することで、「もっと勉強しなければ」「もっと深く物事を考えなければ」と頑張れるようになれる。涙の数だけ強くなれるよ!(唐突に)
間違ってもいいから意見を言ってみていいし、もし自分が間違っていることがすぐに理解できたら「あ、私が間違ってました」としれっと意見を変えることのできる図太さも、また身に着けていきたいものだと思う。
まあ、基本的にはそういうことの繰り返しだ。最初から「鋭いっぽい意見」を言えた人はいない。みな「足ジタバタ」から始まったのだと思っていたほうが気が楽である。
そして、すでに議論のコツを身に着けている人は、もし周囲にそういう「進歩したい」と思っている人を見つけたら生暖かい目で見守るようにしよう。議論のコツが身に着いていれば、「ただ単にダメ出しだけして自分の存在意義を確認したい人」と、「間違ってもいいから意見を言ってみることを通して進化したいと考えている人」の見分けはすぐにつくはずである。
会議やゼミと飲み会の違い?
もう少し補助線として話を続けると、たとえば会議やゼミの目的と、飲み会の目的は違う。
会議やゼミの目的は「結論(仮説)」を出すことであるが、そのためには「議論の抽象度を上げる」ということが必要になる。「抽象度を上げる」というのは、「どこに問題があるか」について、個別具体的なことではなく根本的な原因が何であるかを考えるということで、それをみんなで議論して探り結論(仮説)を出すわけである。
一方で飲み会の目的は、参加者の親睦を図ったり、自分の普段思っていることをフランクに話したりして共感し合ったり、そういう空間を楽しむことだと思う。
これを少し抽象的に整理すると、ゼミや会議の目的は「結論(仮説)を出すこと」で縦軸に伸びていくことを志向するものならば、飲み会の目的は「共同性を強化すること」であり横軸に広がっていくものであるともいえる。当然、目的志向の場での議論やコミニケーションのコツというものと、飲み会やその他の雑談において必要になるツールやコミニケーション方法は違う、ということは一つ言えるのかなと思う。
▼2020.05.09追記
このテーマについて約3年ぶりに書いてみました。
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