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宮台真司・愛のキャラバン(試し読みページ) | にどね研究所

宮台真司・愛のキャラバン(試し読みページ)

このページでは、電子書籍『宮台真司・愛のキャラバン――恋愛砂漠を生き延びるための、たったひとつの方法』の冒頭部を紹介しています。

宮台真司✕鈴木陽司✕高石宏輔✕公家シンジ

<<電子書籍を購入するにはこちらから>>

 この電子書籍は、2012年7月21日に新宿ロフトプラスワンにて行われたトークライブ「宮台真司の愛の授業2012」の内容に、各著者による大幅な加筆・修正、さらには合計で数万字に及ぶ新録のあとがきを加えて再構成した「完全版」です。(動画、写真あり)

 この本に関するツイートはハッシュタグ「 #愛キャラ 」でお願いします!

はじめに ―恋愛砂漠に樹を植え続ける伝道者たち―

 このイベントのメイン登壇者は、首都大学東京教授・社会学者の宮台真司、元カリスマナンパカメラマンの鈴木陽司、カリスマナンパ師/カウンセラーの高石宏輔、同じくカリスマナンパ師/ブロガーの公家シンジ、である。
 宮台真司は『終りなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』(ちくま文庫)や『サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』(速水由紀子との共著、ちくま文庫)、『不純異性交遊マニュアル』(速水由紀子との共著、筑摩書房)などを通じて、現代日本社会の構造と難点を分析し、「この社会の中でいかに《善く》生きるか」を提示し続けてきた。
 彼は1980年代に東京大学で数理社会学や理論社会学の研究を行なっていたが、80年代後半からそうした理論研究とは別に、若者サブカルチャー研究と併せてテレクラや援助交際のフィールドワークに乗り出し、同時に性愛の技法やナンパにも習熟していく。
 「なぜ社会の研究者がナンパに傾倒したのか?」「社会の究明とナンパとの間にどんな関係があるのか?」と疑問を差し挟む向きもあろう。しかし宮台は、「ナンパに習熟することは、社会の要諦を知ることにつながる」とする。
 それだけでなく、昨今の宮台はことあるごとに、「昨今のナンパは間違っている」「正しいナンパには、希望のない社会で幸福になるための秘密が隠されている」「社会のマクロな流れに抗わなければ、ナンパはかえって人を不幸にする」と語っている。
 ナンパというミクロなコミュニケーションの核心と、単なる成員の人数の総和ではないマクロなコミュニケーションから成り立つ社会とが、どうつながっているのか? 宮台はこれを理解する必要があると言う。ぜひこのテーマに着目しながら、この本を読んでいただきたい。
 鈴木陽司は、80年代~90年代前半にかけて東京の街でナンパ師として活躍した。彼は宮台真司とは違い、審美的な要求からカメラのレンズを通して街の女性のカラダとココロをハダカにしていった。彼はやがて、『アクションpress』(少年出版社)や『コメットシスターズ』(白夜書房)『クラスメイトジュニア』(少年出版社)などの90年代前半にブームのピークを迎えていた投稿系エロ雑誌でカリスマカメラマンとして登り詰めていく。宮台曰く、別の動機でナンパを始めたはずのこの二人には、時代的に共通する本質的な動機があったという。
 高石宏輔、公家シンジは2000年代後半から渋谷を始めとした東京の繁華街でナンパ活動を開始し、独自のナンパ哲学とテクニックを駆使して、夜な夜な街の女性たちと魅力の駆け引きを繰り広げてきた。彼ら二人は、今やカリスマナンパブロガーとしてネット上でも大きな支持を集めている。宮台・鈴木が20世紀の旧カリスマナンパ師であるならば、高石・シンジの両氏は21世紀の新しいカリスマナンパ師だ。
 高石、シンジという二人の新しいカリスマは、ナンパ師の「軽薄な」パブリックイメージとは裏腹に、上品で内省的で、知的だ。彼らの口から発される言葉と醸し出す雰囲気は、道ゆく女性たちだけではなく、知的関心の高いネット上の数多の若い男女をも魅了している。
 「活動した時代も年齢も違う新旧カリスマナンパ師たちは、いったいなぜナンパをするのか?」「そこに何があるのか?」「果たして、希望のない社会で、幸福になるための秘密はあるのか?」――かような問題意識から、本イベントは企画された。開催を告知してから即日でチケットが完売し、「当日券は発行しない」との事前アナウンスにも関わらず、観覧を希望する多くの方が当日の会場に詰めかけていた。
 イベント中は登壇者、観客が一体となってまさに「トランス状態」となり、カルト的とも言える異様な雰囲気の中、5時間のイベントがあっという間に過ぎていった。実際に来ていただいた観客の方々からは絶賛の言葉をいただき、「わずか170人ほどの人間だけにこの内容を伝えるのではもったいない!」とたくさんのお叱りも受けた。
 そこで、この高徳なカリスマナンパ師たちの教えをあまねく広めるために、トークライブの内容にさらに加筆・編集して「完全版として」書籍化し、伝道の一部を担おうと思った次第である。この本を繰り返し何度でも何度でも読み返すことで、「恋愛砂漠に樹を植える」かのごとき彼らの教えを、骨の髄の髄まで完璧に自分のモノにし、現代日本の恋愛・そしてコミュニケーションという不毛地帯に大海嘯(だい-かいしょう)を起こしていってほしい。 

『宮台真司・愛のキャラバン』制作チーム一同

 イベント当日のツイートまとめはこちら
【ツイートまとめ】宮台真司の愛の授業2012――新旧インテリナンパ師達によるアカデミックナンパ塾 – NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2136920394288873801

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目次

 はじめに ―恋愛砂漠に樹を植え続ける伝道者たち―

 第1章 ナンパの極意は〈変性意識状態〉にあり

 イントロダクション
80年代は野外セックスの時代だった!?
自己啓発化する現代のナンパ
なぜ「会って10分でセックス」できたのか?
園子温の映画に学ぶ〈変性意識〉のつくり方
論理的に考えるな! いかに変性意識(トランス)に入った状態でナンパするかだ!
非日常の扉を開けよ!――ケーススタディ「寝取り」から考える
心象風景が立ち上がる地方/対人恐怖症の東京渋谷
キミは、渋谷のスクランブル交差点で仁王立ちできるか?――熱をぶつけろ!
〈瞬間恋愛〉――この世は見かけによらずワンダーランド
童貞喪失という最初のハードルはどうすれば越えられるのか?
そもそも〈変性意識状態〉=トランスって何? みんなでやってみよう!
女の子が〈変性意識〉に入っているかどうかを見抜くポイントとは?
一見身持ちの堅そうな女の子も、「実は内部で煮えたぎっている」――!

 第2章 自分の内側から湧き上がる力、〈ヴァーチュー〉を覚醒させよ!

 【YouTubeドキュメンタリー】もしコミュ障の童貞男子がカリスマナンパ師にナンパを教わったら(もしドナ)前編

先ず塾講より始めよ
女性は「ナンパ」という行為をどう感じているか?
「宮台真司に影響されてナンパを始めたミニミニ宮台くん」がハマる落とし穴
自己防衛系男子は女子にとっては愚痴のゴミ箱
スティーヴ・ジョブズに学ぶナンパ――マーケット・インからプロダクト・アウトへ
自分の内側から湧き上がる力、〈ヴァーチュー〉を覚醒させよ!
〈ヴァーチュー〉はどこから湧いてくるのか?
過去の相手との性体験を「再現プレイ」でオカズにせよ!
自分の趣味を女の子に押し付けるマザコン男はAKB48が好き?
処女厨、ダメ、ゼッタイ
どうでもいいセックス――イキたい女、ビビる男、男に合わせる女
宮台「もっと! エッチな! 人間になれるッ!」(机ドンッ!
これからの「本当にいいセックス」の話をしよう

第3章 非モテは吠えるが愛のキャラバンは進む

【YouTubeドキュメンタリー】もしコミュ障の童貞男子がカリスマナンパ師にナンパを教わったら(もしドナ)後編

「もしドナ」その後――カリスマナンパ師たちによるフィードバック
黒光りした戦闘状態でナンパに臨め!
ナンパ声かけ、正面から行くか? 横から行くか?
「ナンパをする場所は? 時間帯はどうすればいいですか?」→そんなことを聞いている時点で終わっているんだよ!
男の欲望を受け止めてしまいすぎる女
ナンパ、その可能性のゆく先
宮台真司はいかにしてナンパをやめ(られ)たのか
「断られたときに傷つくのが怖くて、声をかけられない問題」を克服するには
「女性だってナンパしたい! どうやってやればいいの?」宮台「それはとても簡単です」
女の子の「素の良さ」をどうやって引き出していくのか?
頭でっかちなナンパをしている限り「幸せ」になんかなれない
性的なトラウマを負った男性に、再びセックスに興味を持ってもらうには?
「ナンパはゆきずりだから傷つかない」ってホントなの?
セックスに幻滅した女の子が多い今こそ本当のチャンス
おわりに ~行こうぜ、ガンシカの向こうへ~

 あとがき

【鈴木陽司】
【高石宏輔】

 【公家シンジ】「待つということ――宮台さんの『美しき少年の理由なき自殺』を読んで」
1.大学時代の友人
2.意味と強度
3.青春のなかの絶望
4.ナンパを始めたきっかけ
5.類型化される人間関係
6.宗教コミュニティ
7.生きるというのは死を待つということ

 【宮台真司】
1.ちまたの「ナンパ塾」への違和感
2.プライバシー開陳というハードル
3.混乱の日々が導いた、奇蹟の邂逅
4.関係した方々への御礼、そして……

 【編集後記にかえて】「矢を放って事を起こす」意味
読者のみなさまへ
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――――――――

第1章 ナンパの極意は〈変性意識状態〉にあり

 イントロダクション

 立石 みなさま、どうもこんばんは。司会の立石と申します。どうぞよろしくお願いします。私は宮台先生の下で学ぶ学生です。まず最初に、このイベントの企画の起こりを少し説明させていただきます。
 かねてより宮台先生はご著書などで性愛やナンパについて「熱く」語ってこられました。私は宮台門下に入る前から他の読者同様「この熱の入り方は尋常ではない。そして何より希望がある」と思ってきました。一方最近、Twitterを中心にネット上でのナンパ情報交換が盛んです。私がこの動きに注目し始めたのは2010年頃からですが、現今ますます盛り上がりを見せています。このムーブメントの中心におられるのが、今日ご登壇いただく高石宏輔さんと公家シンジさんです。このお二方も宮台先生と同じく「異常な熱量」をもってナンパにコミットされており、私をはじめ多くの「まじめで不満足な」若者が魅了されています。今日はその魅力のほぼすべてを地上に再現していただきたいと思います。
 かつてナンパを極め、今もこのことについて積極的に発言されている旧カリスマナンパ師の宮台先生とネット界の新カリスマナンパ師の高石さん・シンジさんのお二人をぶつけると必ずおもしろい化学反応があるに違いないと思い、トークイベントを企画させていただくに至りました。そして、宮台先生が旧カリスマナンパ師として登壇を強くご推薦されたナンパカメラマンの鈴木陽司さんにお越しいただきました。みなさま、どうぞお手柔らかにお願いいたします。
 それでは、登壇者の方々をご紹介していきましょう。まず、みなさまご存じの首都大学東京教授で社会学者、元カリスマナンパ師の宮台真司先生(Twitter: @miyadai 公式HP : miyadai.com)です。

宮台 よろしくお願いします。

立石 次に、元カリスマナンパカメラマンの鈴木陽司さんです。80年代後半から90年代までに、渋谷や新宿を中心にナンパをして写真を撮っていた方です。当時は投稿エロ写真やナンパ写真がブームだったそうで、陽司さんはそのブームの先導者ともいうべき存在でした。

鈴木 よろしくお願いします。

宮台 僕のほうからも鈴木陽司さんの紹介をさせていただきます。80年代半ばから90年代半ばにかけてナンパ雑誌がたくさんあったんですが、陽司さんは90年代のカリスマ・ナンパカメラマンとしては間違いなく、一番のアイコンでしたね。
 歴史を振り返ると「ナンパの時代」の幕開けが1970年代後半で、サーフィンやディスコやテニスやペンションのブームと連動していました。70年代末からハメ撮り写真誌の前身にあたる盗撮雑誌が出てきて、そこに世界初のハメ撮りカメラマン佐々木教(ささき・きょう)さんが登場します。
 教さんがとりわけ活躍したのが1980年代後半で、僕がテレクラのフィールドワークを始めたころです。1990年代になると、教さんは「ナンパが馴れ合いになって面白くなくなった」と退場されて、かわりに躍り出てきたのが陽司さんでした。僕はそう記憶しています。

立石 ありがとうございます。よろしくお願いいたします。そして次は、昨今ツイッターやネット上で話題を巻き起こしているカリスマナンパ師・兼カウンセラーの高石宏輔さん(Twitter : @lesyeuxx HP : 「ナンパ、催眠を通して見出した他者と話すということ」 )です。

高石 よろしくお願いします。僕はもともと自分でナンパしたり、渋谷で風俗やキャバクラのスカウトもしていたんですが、今はカウンセリングをやっています。あるとき、カウンセリングのクライアントの方に「ナンパを教えてほしい」と言われたのがきっかけでナンパの講習を始めるようになりました。講習をしていくなかで、対人恐怖症やパニック障害などがすごく早いスピードで治っていくのを目の当たりにして「これは使えるな」と思って、カウンセリングのひとつの可能性としてナンパの講習を捉えるようになりました。

立石 ありがとうございます。そして最後に紹介するのは、高石さんと一緒にUstreamで「ナンパの手帖」 という非常に人気の高いナンパ情報番組に出演されていて、「性とナンパについて渋谷で考えた」という人気ブログを執筆されているカリスマナンパ師/ブロガーの公家シンジさん(Twitter : @qqille)です。よろしくお願いいたします。

シンジ シンジと申します。よろしくお願いします。

宮台 年齢は僕が53歳で、鈴木さんが40代後半。5歳の違いです。高石さんが32歳で、シンジさんは28歳。お二人とも僕より20歳以上もお若い。とは言うものの、僕は1986年生まれ分水嶺説をとるので、それぞれ1980年と1984年に生まれたお二人は、「僕と近い」と思っています(笑)。

立石 50代前半から20代後半まで、25歳の幅ですね。ちなみに僕は宮台先生が分水嶺としてあげられた1986年生まれです。今日はいらっしゃっているお客さんはだいたい何歳ぐらいの方なんでしょう? ちょっとアンケートを取りましょうか。

(会場で挙手によるアンケートを取る)

立石 ありがとうございます。……なるほど、20代、30代の方が多いですね。20代4割、30代4割という感じですか。……40代、50代より上の方もいらっしゃいますね。50代以上は宮台先生含め3名ですね。

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80年代は野外セックスの時代だった!?

立石 ではトークに入りたいと思います。まず宮台先生、鈴木陽司さんが実際にナンパされていたのが80年代後半から90年代にかけてですが、高石さんとシンジさんは00年代以降に活動を始めた若手のナンパ師ということになりますよね。そこでまず、みなさんのこれまでのナンパ遍歴と、今と昔のナンパの違いについて語っていただければと思います。では、宮台先生からお願いします。

宮台 僕は85年から96年まで、テレクラを中心に、最初はユーザーとしてナンパを始めました。僕がみなさんに知られるようになったのは1993年。援助交際を世に紹介した男としてですね。援助交際がメディア上でも実際にもブームになったのは、93~96年あたりです。
 テレクラが誕生した85年から96年ぐらいまで、全国のテレクラを巡って女の子をウォッチし続けていました。テレクラでは90年代初頭からダイヤルQ2ブームを背景に急速に売春化が進んだので、援助交際がどのように始まったのかを事実上つぶさに目撃することになりました。
 1993年秋、僕が朝日新聞の「論壇面」でにそうした女子高生の存在を紹介して道徳概念の変質を論じたら、テレビや雑誌が飛びつきました。僕が持っていた数多くの女子高生ネットワークをつないであげたところ、テレビなどが連日ブルセラ&援交女子高生についての話題で持ち切りになったのでした。
 当時、音楽記事で名を知られた朝日新聞の近藤康太朗記者が、渋谷センター街を中心にした僕のリサーチに一日同行して記事にしています。そこにも書かれていますが、女の子を探して出かけ、捕まえて話を聞く、というプロセスは、実はナンパと大して変わりません。
 ちなみに、僕の場合は、ナンパに乗り出してから四年後の1980年代末からフィールドワークとしての記録を取るようになり、「これは仕事だ」と決めて、「仕事での声かけ」と「ナンパでの声かけ」を峻別するようになりました。でなければ、僕は今ごろ「物書き生命」がなくなっています。

会場 (笑)

宮台 それでも、連日マスコミに出ていた1990年代半ばには、講演会や出版記念サイン会をすると「私のこと覚えてますか?」という若い子が何人か出てきました。それもあって、メディアで露悪的に振る舞うことにしたら『噂の眞相』ゴシップ記事の常連になりました。
 『噂の眞相』には何だかんだと40回近く書かれたけど(笑)、話を戻すと「仕事での声かけ」でもラポール(編注:何かしらのきっかけがあって、互いに信頼し、安心して話ができる状態のこと)を築いて、訊きたいことを訊こうとするので、流れのプロセスもナンパと似ています。
 「仕事での声かけ」でフィールドワークをするようになって気がついたんですが、絶対に他人に話さないような深いところまで話してもらえると、たとえセックスしていなくても、実際にセックスしたのと同じようなカタルシスを得られるということがあるんですね。 それが仕事の大きな動機づけになっていました。

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高石 そもそも、宮台さんはなぜナンパや性愛に興味を持ったんですか? 社会学をやっている人でも、よほどエネルギーがない限り、わざわざ取材対象に声をかけようとは思わないんじゃないか、と思うんですけど。

宮台 高石さんもカウンセリングを通じて同じようなケースをご存じだと思うけれど、最初のきっかけは23歳、大学院修士一年のときの巨大な失恋です。僕を振った女の子を見返したくて、「あの女よりもいい女をゲットしてやるんだ」という具合に意気込みました。
 実際、1990年代半ばにナンパ師たちをたくさん取材して、人がナンパ師になる際の、とりわけ高偏差値大の出身者にはよくある動機づけのパターンであることがわかりました。要は「初恋の失恋で失った何か――プライドかもしれない――の取り返し大作戦」ということでしょうか。
 でも、この作戦では、初恋で失った女が理想化されているから、誰と出会っても「こいつも違う、こいつも違う」となります。そのうち「ミイラ取りがミイラになる」。最後には出口が見えなくなり、感動する力を完全に失ったダメなナンパ師になってしまいました(笑)。
 あとで大事な補足をしますが、それが大まかなストーリーです。1982年に失恋し、そのすぐあとに、アウェアネス・トレーニング──当時は自己啓発セミナーと言いました──の存在を知り、何度かエクササイズのコースを受けに行きます。そこで二つの気づきを得ました。
 ひとつは、記憶の合理化について思い知りました。自分自身が「振った」と記憶していたのが、実際に何が起こっていたのかをリマインドするセッションを受けたら、「振られるのが怖くて、自分が振ったことにすることで自己防衛をしていた」ことに気付けたんです。 さっき「巨大な失恋」と言ったのが、それです。
 トレーニングを通して得たもうひとつの気づきは、「どんな心の状態だとナンパしやすいのか」でした。これはアウェアネス・トレーニングがよく営業研修に用いられてきたことに関係します。そもそもはアメリカの企業エリートがワンランクアップするためのメソッドだったんです。
 限界を超えて頑張るために、普通は欲望に打ち勝つための意志力が強調されます。でも、意志力は当人が元気じゃないと使えない。でも人間には元気なときも元気じゃないときもあります。元気じゃないときにどうするか。つまり意志力を使えないときにどうするか。
 ある種のトランス状態──これを〈変性意識状態〉altered statesと呼ぶのですが──に入って(編注:〈変性意識状態〉の意味について本章最後に解説があるので、ここでは意味を想像しながら読み進めてください)欲望自体を書き換えるんですね。それが答えです。
 「スクリプト」「ストーリー」「ゲシュタルト」「神経言語プログラム」──いろんな言い方がありますが、欲望の背後には、認識と価値のフレームがあります。このフレームを書き換えてしまえば、「何をするのが自然なのか」についての思い込みが変わるわけです。
 すると、意志力で欲望を禁じるまでもなく、欲望自体が少なくとも一時的には変わります。そうすると、今まで自分ができなかったことができるようになるので、要は勘違いなんですけれど、「自分がバージョンアップした」ような気持ちになれるんですね。 もちろん、短期間に人格が変わることはありえないので、勘違いなんですが。
 オウム真理教──正確には前身のオウム神仙の会──の始まりは1984年ですが、1970年代末から1980年代半ばにかけての新新宗教ブームを背景にします。新新宗教ブームは自己啓発セミナーブームと表裏一体で、僕が受けたアウェエネス・トレーニングと同じような訓練を、麻原も上祐も受けていました。
 そうしたトレーニングを通じて、第一に自分の記憶がウソだった事実を知り、第二に〈変性意識状態〉に入ればいろんなことができることを知りました。そして、直後の1985年、テレビの昼ワイド番組「アフタヌーンショー」のテレクラ特集を、たまたま観たんですね。
 世界初の出会い系であるテレクラの一号店は、新宿の花園神社近くの「アトリエ・キーホール」でしたが、円卓中央に電話が置かれた、変な形式でした。 一般に知られるのは個室テレクラという形式で、 世界初の個室テレクラは、新宿のヨドバシカメラ近くの「東京12チャンネル」でした。ここが特集されていたんですね。
 それを見て、すぐに南林間から新宿まで小田急線に乗って、全国で103番目の個室テレクラユーザーになりました(笑)。自分の限界を突破できる千載一遇のチャンスだと直感したんですね。ナンパのチャンスというより、自分の限界を超えるチャンスだと思いました。
 テレクラにハマる人の多くがビギナーズラックを経験しています。僕の場合もそうでした。テレクラの歴史が関係するので、少し紹介します。テレクラができたのが85年ですが、その前の81年から、「清水節子のテレホンセックス」に始まるテレセブームがありました。
 その流れがあったので、僕は女性がテレセ(テレホンセックス)を期待して電話をかけてくるだろうと思って、事前に「5つのチャンネル」を作りました。「医者と看護婦」「先生と生徒」「家庭教師と奥さん」「御用聞きと奥さん」「電車痴漢とOL」です(笑)。
 そして、電話をかけてきた女性に「チャンネルが5つありますが、どれにしますか?」と尋ねました。最初の「チャンネル利用者」は商社マンの奥さん。それで盛り上がって「会おう」という話になりました。ビギナーズラックです……ちょっと話が長いですね(笑)。
 「自分の限界を超える」と言いましたが、もう少し詳しく動機について話してみましょう。ひとつは「アウェアネス・トレーニングで〝バージョンアップ〟した自分の性能を確かめる」というのがありました。でも、これは最初の二~三回で満たされるような動機です。
 もうひとつは「自分は女性とは何かを知らないのではないか」「自分は性とは何かを知らないのではないか」「自分は社会とは何かを知らないのではないか」という思い。これは説明が要ります。何といっても、当時の「性」って得体の知れないものだったことがポイントになります。
 1980年代前半は、フツーの素人が初めて大規模に風俗に乗り出す「ニュー風俗ブーム」で、1980年代後半は、素人の男女が匿名で出会う「テレクラブーム」でした。要は、女性が「わけがわからないまま、大規模に性的営みに乗り出した」のが、1980年代だと言えるんです。
 僕は1982年に大学を卒業しましたが、大学もカオスでした。先生と生徒の恋愛は当たり前。仏文科では高名な先生がコンパで学生をお持ち帰りすることもあって社会学科にも聞こえてきました。また、東大ではキャンパスのそこかしこでセックスが行われていました。
 それも昼間からです。図書館の人が立ち入らない書架の陰、非常階段の踊り場といった場所には、よく使用済みのコンドームが落ちていて、先客がいたことがわかるのでした。中に残った精液の透明度から、「これは30分以内だね」と女の子とはしゃいだりしていました。
 同じサークル内でも「寝取り、寝取られ」が当たり前でした。僕の周辺だけではなく、大学中に性的なカオス感が充満していました。ところで、僕が大学に入ったのは78年です。メディア研究からわかるのですが、急に「性」が自由になり始めたのが77年からなんです。
 77年からの十年間、急に「性」が自由になったものの、ルールが確立されていないので「どうしたらいいのか」「みんながどうしているのか」が誰にもわからなかったんです。佐々木教さんがナンパ写真を公表するようになったは、いつからでしたっけ、陽司さん?

 鈴木 80年くらいからかな。

宮台 それぐらいですね。白夜書房が当時『ウィークエンドスーパー』とか『ニューセルフ』という雑誌を出していました。後にエロ部門を少年出版社(現在のコアマガジン)に移しましたが、これらの雑誌はアラーキー(荒木経惟)がデビューした媒体でもあります。
 佐々木教さんは、さっき紹介した盗撮写真誌に加えて、そうした媒体にもハメ撮り写真を載せていました。教さんが1992年にプライベート写真集『鬼』を出したときも、「急に自由になった性に、女の子はどう向き合っていいかわからなかった」と語っておられた。
 教さんが1986年に出した『早い話がナンパの本』には、1985年あたりからこうした「わけがわからない感じ」が女の子から消えた、と書いてあります。ストリートでナンパする場合はそうだったんでしょうね。テレクラは1989年頃まで「わけがわからない感じ」が続くんです。
 ハメ撮り写真誌の全盛期が1989年頃で、そうした写真誌が30以上ありました。それぐらい当時の性はカオスでした。30誌すべてを制覇したカリスマが「湘南ジゴロ」という男で、僕も取材で面会しました。教さんは80年代全体を通じてカリスマでしたが、湘南ジゴロは鈴木陽司さんと並ぶ90年代前半のカリスマでした。
 そのカオスが僕自身も面白かったんです。その状態は1977年から始まって、陽司さんや湘南ジゴロさんが活躍された1990年代前半まで続いたんですね。ただしカオスは、テレクラから今度は都心のストリートに移転し、主人公もブルセラ&援助交際の女子高生たちへとシフトしました。 ここが僕のフィールドワークの主戦場になります。

自己啓発化する現代のナンパ

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宮台 最近はナンパ実践が自己啓発に近づきました。本日の観客のみなさんを見てもそう思います。「ナンパが上手になること」自体でなく、「ナンパできない自分から、ナンパできる自分へのワンランクアップ」による自己肯定度の上昇が、目的だということです。
 女の子も同じで、自分でナンパをしなくても、ナンパに応じる場合、「ゆきずりセックスできない自分から、ゆきずりセックスできる自分へのワンランクアップ」が目的という感じになります。女性雑誌に登場する言葉でいえば、「殻を破る」というイメージです。
 要は「ナンパできない自分=『新世紀エヴァンゲリオン』の〈碇シンジくん〉」なんですね。〈碇シンジくん〉が男になるときにエヴァ搭乗があるのですが、エヴァ搭乗のかわりにナンパがあるわけです。今ナンパをやる人にはそういうタイプが多いと思うんです。
 さっき言ったように、僕も出発点では「それ系」でしたが、乗り出してみたところが、当時はあまりにも性がカオスだったので、ほどなく「自意識の問題」よりも「対象の問題」のほうが面白いと思うようになって、挙句の果てにフィールドワーカーになりました。
 すでに語ってきたことですが、僕は「寝取る」のが好きでした。友だちの彼女とか先輩の彼女とか重要な人物を寝取るとエキサイトしました。ただ当時の僕は「寝取る」意味をわかっていませんでした。相手の子も「寝取られる」意味がわかっていなかったように思います。
 陽司さんもご存じだと思うけど、ナンパカメラマンに声をかけられて、大股開きの写真を撮られて、場合によってはハメ撮りを撮られる子は、自分自身もよく意味がわかっていないことが多かったんです。僕はその「得体の知れなさ」に関心を持って、ハマりました。

高石 宮台さんの「寝取り」のお話を聞いていて、僕は現代にも通じるものがあるなと思いました。今だと「どういう職業の人か」「どういうポストについている女の人か」「どれだけグラマラスな女の人か」とか、そういったところに意味を感じるところがあると思うんですね。僕はそうなんですけど、「そのへんの家出少女ではつまらない」と思ったりします。
 僕らよりも少し前の世代のナンパ師には、「渋谷のセンター街や新宿の歌舞伎町にいる家出少女のような女の子たちのなかで美少女を探して声をかけ、セックスする。そうやってセックスした女の子の人数を競う」といったスタイルがあったと思う。
 今もその名残りがあるけれど、僕はそういうナンパは大嫌いなんですよ。そういう子とセックスしてもだいたいマグロなわけです。その子たちのなかで、18歳ですでに300人とやった女の子がいて、どんなセックスをするんだろうと思ったら、つねにコンドームを持ち歩いていて、セックスのときには微動だにしない。

宮台 感覚が閉じているんですね。

高石 はい。そうだと思います。そういうセックスを何百とこなしてもあまり意味がないし、宮台さんのおっしゃった「得体の知れなさ」のようなものに巡り会うことはまずないわけです。たぶん僕は、宮台さんの頃のようなカオスなセックスを探し求めているところがあります。

宮台 僕も似たような体験をしています。僕は1983年から学生企業(テレビドキュメンタリー企画とマーケットリサーチ)の立ち上げに関わりましたが、当時は大手広告代理店による接待は「女」がつきもので、出張で宿泊する場合も「女はどうしますか?」と当たり前のように尋ねられました。
 慰安旅行に接待されたりするときにも、モデル並みの美女たちをつけられるんですが、そういう子とセックスしても、僕としての僕に関心を寄せているわけじゃないという意味で感覚が閉ざされているので、 面白くないんです。 実際のところ、僕はテニスしかしませんでした(笑)。
 そういう男社会としての企業社会で、接待の「実弾」として使われる女子の感覚は、滅多に開かれていません。「数を競う」とか「モデルとやる」といった営みの貧しさは、経験すれば実感できます。でも、経験が浅い男子が憧れるのは、仕方ないかなとも思います。
 さて、どういうふうにナンパに乗り出したかという質問でした。時代を絡めてお話ししてみました。ここにいらっしゃる若いみなさんにも風景が浮かんできましたか? これは陽司さんにもお聞きしたいんですが、陽司さんがナンパカメラマンになったのは、そもそも、どういう動機からだったんですか?

鈴木 僕は「たくさんセックスしたかった」ですね。でも宮台さんや高石さんの言うように、「数を競いたい」というよりも、いろいろなことをやりたかった。

宮台 当時の「たくさんやりたかった」は、どういう気持ちからなんですか?

鈴木 「数を自慢したい」とか、そういう動機ではないですね。「トキメキ」というんでしょうか……。最初、ナンパを始めた頃はびっくりしたんですよ。会って10分くらいで、そのへんの野外とかでハマっちゃってるじゃないですか。

宮台 えーと……補足しますね(笑)。昔は野外でセックスできる場所がいっぱいあったんです。雑居ビルの空きフロアとか、非常階段とか、屋上とか。当時は監視カメラなんてなかったので、ナンパに成功すれば、ほんの10分もあればセックスする場所を探せました。
 今の感覚からすると、「えーっ」って思うかもしれないけれど、 僕自身が何度も経験しています。 渋谷でも、この新宿でも、非常階段や屋上で、そうした体験ができました。実際、80年代から90年代前半にかけての投稿写真誌にも、そういう写真がたくさん掲載されていましたしね。

鈴木 そうそう、本当にそうだったんですよね。ただ、ある時期から、どこに行っても警備員がすぐ来たり、階段とかもだめになったりしましたね。80年代当時はまったく大丈夫で、原宿のような都心部でも、雑居ビルの空き部屋とかを覚えていてすぐ入れました。

なぜ「会って10分でセックス」できたのか?

高石 いま、お客さんは「10分でなんでセックスできるんだろう?」と疑問に思ってるんじゃないでしょうか。僕自身もお聞きしたいのは、お二人のお話を聞いていると、さっき僕がお話しした「誰とでもすぐ寝ちゃう子と10分でセックスした」のではなさそうだと思うんです。もしそうなら、当時の女性たちが、今の女性たちよりもセックスに対して開放的であったり、興味を持っていたりしたのではないか、と思うのですが。

鈴木 僕らの頃はまだタブーも多かったので、今では普通になっていることも背徳的だった。そんな時代なので、そこまで自由な感じだったというわけでもないですよね。そう言われると、なんでなんでしょうね……。

宮台 おそらくタブーが多いぶん、女の子は〈変性意識状態〉になる敷居が低かったんじゃないかと思います。今とは違って、たとえば、知らない人に胸を触られた時点、フェラチオした時点で、女の子は頭が吹っ飛んじゃっている状態だったんじゃないでしょうか。
 今よりも「性」そのものが非日常だったからこそ〈変性意識状態〉に入りやすく、それゆえに「得体が知れない経験」があり得たんです。佐々木教さんも言うように、女の子も、わけがわからないという意識のままナンパに応じることが多かったんじゃないかと思います。

鈴木 あと、僕の場合は「10分」と言っても、純粋なナンパとは少し違うんですよ。写真があるので間が持ちやすい。写真を撮っていくうちに「ああ、この子は来てるな」という感覚が掴めるというのはありました。

高石 写真を撮りながら関係が進んでいく感じなんですね。

鈴木 写真を撮るだけで10分後にはセックスできるところまで来ちゃっているのを見抜けるかどうかなんですよ。だから、もちろん声をかけた全員とセックスできるところまで行くわけではない。

宮台 僕は94年に関西テレビでナンパカメラマンを題材にしたドキュメンタリーに関わって、何人もナンパカメラマンを取材しました。湘南ジゴロとか福永ケージとかナンパ仮面とか。全員すごかったんですが、10分後にセックスという話では福永ケージが印象的でした。
 彼は表参道で声をかけるんですが、スーツ姿の女の子が「就職活動中で30分後に面接なんです」って言って断っているのを「大丈夫、大丈夫」と説得して10分後には大股開きをさせている。AVによくあるヤラセ的シチュエーションですが、彼はすべてが本モノでした。
 今ならありえませんが、大股開きした後で、その子が、僕の取材に、ビデオカメラを回した状態で応じるんです。オンエア時はモザイクをかけたけれど。「君、就職の面接じゃなかったの? こういうことよくあるの?」って訊くと「初めてです」と答えるんですね。
 ナンパの過程を、ビルの屋上から望遠レンズで撮り、音をワイヤレスで飛ばしてリアルタイムでモニターしていました。一眼レフを構えた福永ケージの口上は、中身が支離滅裂ですが、実は女の子が〈変性意識状態〉に入るよう反応を見ながらの口八丁手八丁でした。
 ちなみに、彼は僕と同じ高校紛争世代で、73年に学園闘争の季節が終わった後、70年代後半に「政から性へ」とシフトしたクチです。やがてまた「性から政へ」と戻って国会議員選挙に立候補していました(笑)。「政から性へ、そして再び政へ」は僕と同じです。

高石 僕は催眠術のノウハウも使いながらナンパするんですけど、今日聞いていても思うのは宮台さんの声はとてもいいですよね。そういう声の質も大事だし、それに加えて「支離滅裂なことを言う」というのがポイントになっているなと思いました。
 現代の女の子でも、いきなりけなしたり、いきなりほめたり、全然関係ない話をしたりするとみんなポカンとし始めるんですよ。そこでポカンとしているときに褒めて喜ばせて、けなしてグシャっとヘコましたりして、そうやって感情の振れ幅を大きくすることで〈変性意識状態〉に誘導します。

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園子温の映画に学ぶ〈変性意識〉のつくり方

宮台 高石さんが今おっしゃった「感情の振れ幅」は重要な鍵です。園子温の映画を見たことがある人はいらっしゃいますか? 園子温監督は、統一教会の信者を経た後、新左翼の三里塚闘争に参加したという、変わった経歴の持ち主です。その経験が、彼の映画表現につながっています。
 実を言うと、彼の映画で、アート表現だと思われているものの一部は、宗教勧誘でも用いられる洗脳テクニックの応用です。まずリアリティAを体験させた後、次にまったくかけ離れたリアリティBを体験させ、さらにまたリアリティAに戻す、といったやり方です。
 同じ方法を、僕はかつて大学の授業で使っていました。まず犯罪被害者の悲しみに徹底的にシンクロさせることで死刑賛成派のリアリティに降った後、次に冤罪被害者の悲しみに徹底的に寄り添うことで死刑反対派のリアリティに降る、といったやり方です。 園子温監督の映画を見た経験がある人なら想像できるでしょう。

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