今回はイランの寮生活について書きたいと思います。
私がイランに滞在中に寮に住んでいたのは、語学学校に通っている時と、テヘラン大学に通い始めた一年目でした。
語学学校時代に住んだ3つの寮
語学学校に通っていた時には合計で3つの寮に住みました。一つ目はテヘラン北部のヴェレンジャックという地区にある、シャヒード・ベへシュティー大学のゲストハウスでした。ここは、この大学を短期的に訪れる既婚者が宿泊するための施設ですが、語学学校に近いということもあり、特に欧米から来ている学生にも貸しているのでした。
このゲストハウスはテヘランの中でも地価の高い北部に位置し、空気もきれいなのですが、街歩きがしづらいという欠点がありました。やや隔離されている場所でもあるため、外に出るのもちょっと億劫でしたし、買い物も気軽にできません。タクシーに乗らないと帰ることができない、というのもマイナス要因でした。
そこで、イラン人の友人を経由して語学学校の寮担当の人とも交渉し、すぐに別の寮に移ったのでした。
次に移った寮は、テヘラン大学のメインの寮でした。区画のなかにいくつかの建物があります。
この寮は普段はイラン人の大学生が暮らす寮なのですが、夏休みの間だけ外国人にも貸していたのです。そんなわけで3ヵ月ほど、この寮で過ごしました。
この寮で私は個室だったのですが、同じフロアに同じ語学学校に通っていたトルコ人の学生や、夏休みに帰省していないイラン人の学生がいました。滞在中はしだいに彼らと仲良くなり、食事を一緒に食べたり、夜に紅茶を飲みながら話をしたりするようになったのでした。
この寮のある区画は一つの街のようになっていて、床屋やクリーニング屋、サンドイッチを販売する売店、さらにボディービルディングのためのジムもありました。価格も街中よりもはるかに安い値段でした。
イランでは、国立大学については「コンクール」という全国統一試験の点数で進学する大学を決めるのですが、全国どこに住んでいても、そして家庭が貧しくても、大学の寮に住めばそれなり暮らして、学業に勤しめるという環境がありました。
一方で、修士号や博士号といった学位が、日本と比べるなら、はるかに社会の中で尊敬されているということがあるのですが、その一方で血縁や地縁、(体制に沿った宗教的な)イデオロギーといった要素によって職業の重要なポジションがあてがわれることもあり、話したテヘラン大学の学生たちは、エリート意識と社会の不条理への憤り、といったような鬱屈した思いを抱えているように思えました。
この居心地のよかった寮も、夏休みの時期が終わると出なければなりませんでした。次に移ったのがエンゲラーブ広場にある外国人の男性向けの寮で、テヘラン大学の留学生や語学学校の学生が住んでいました。4階建てで、各階ごとに3部屋と共同のキッチンとリビングがある建物でした。日本から来ていた留学生も、ほとんどここに住んでおり、一緒に料理を作ったり、イランの情報や愚痴を話し合ったり、購入した水たばこを吸う会を開いたりしました。
ある日、この寮に中国人の留学生が来て相部屋になることになりました。寮の管理人が連れてきて、イランで働くことになったからと紹介されたのです。
ところが彼は、非常に変わった人でした。まずペルシャ語はおろか英語もほとんど話すことができなかったのです。学習も遅く、初級クラスを繰り返していましたし、神経質なところがあって、寮で癇癪を起こしたりと、いろいろと問題を抱えていました。
後で他の中国人から聞いた話では、彼は中国の田舎から出てきて、何も知らないままイランに来たのだ、と言っていましたが、真相は定かではありません。
彼と一緒にいたときにはいろいろお互いにストレスもありました。それでも今思い返すと、少し懐かしさもあるというものです。約一年後、テヘラン大学に留学しているときに一度だけ地下鉄の駅で彼と遭遇しました。その時には彼もペルシャ語を話せるようになっていて少し話したのを覚えています。その後、彼がどうなったのかはわかりません。
テヘラン大学の寮生活
テヘラン大に入ったときに本来推奨されていた寮は、語学学校留学時に3番目に暮らした寮でした。けれども私は別の寮を希望し、エンゲラーブ広場にある別のテヘラン大学の外国人寮を選びました。
昔はテヘラン大学のメインの寮に外国人棟があったらしいのですが、政治騒動があったらしく、それ以後、外国人はイラン人とは別の建物の寮があてがわれるようになったらしいです。以前いた寮は、ヨーロッパ出身の留学生がメインでしたが、他の外国人寮で一番多いのはアフガニスタン人です。他にもイラクやシリア、パキスタンなど近隣諸国の学生がいました。
そんなわけで、私は最初、2人部屋でイラク出身のクルド人の男性と同じ部屋になりました。彼は私よりも15歳ほど年上で、独身ででっぷりと太ったおじさんでした。ペルシャ語は非常に上手く、学業よりも女遊びに夢中でした。そして何よりもむかついたのが、いびきが非常にうるさいということでした。二段ベッドだったのですが、下からいびきが聞こえてきて眠れないのです。そんなわけで彼との生活も非常にストレスフルだったのでした。
同じ階には2つの扉があったのですが、私のいた方には三つの部屋がありました。1つにはアフガニスタン人が3人いて、もう1つの部屋にはパキスタン人が2人いました。アフガニスタン人の3人の内、1人は実家がゴムにあり、授業のあるときだけテヘランに来て寮に泊っていくという感じだったので実質2人でした。1人は背が高く、もう1人は私よりも背が低く聡明な青年でした。
私は特に背が低い方の青年と仲良くなっていったのですが、あるとき幸運が訪れました。長身の方と同じ部屋が嫌なので部屋を変えたいと彼が言ったのでした。その理由は、長身の方が宗教的にクレイジーだったからでした。彼は夜中に突然起き上がり、ノウヘと呼ばれる宗教的な歌をスマホで流して胸を叩きだすのでした。こうしたこともあり、4人で話し合って、イラク人と背の低い青年が入れ替わる、ということで話が落ち着いたのでした。
アフガニスタンのカーブル出身の背の低い青年とはいろいろと意気投合し、いろいろなことを話し合いました。彼はゲゼルバーシュという民族でした。元を辿ればアゼルバイジャン地方のトルコ語系の民族なのですが、18世紀にアフガニスタンに移住したのだそうです。そして、今ではペルシャ語(ダリー語)が母語となっています。また、もう一人の長身のアフガニスタン人はヘラート出身のハザーラという民族でした。ハザーラの起源は諸説ありますが、モンゴロイド系の顔つきをしているために、中には日本人と言っても不思議はない顔つきの人もいます。ハザーラは(ゲゼルバーシュも)シーア派で、母国で迫害されることもあるので、イランに移住している人も多くいます。(過度の一般化は慎むべきでしょうが、)彼らを通じてアフガニスタン事情や、アフガニスタン人から見たイラン社会観などについても、いろいろと話を聞くことができました。
語学学校時代に生活した寮もそうだったのですが、この寮のよかったところは、管理人が常駐していないということでした。なので、門限もなく夜中でも好きな時間に帰ることができたわけです。これは例えば同じクラスにいたイラン人と合同の女子寮に住む学生とは状況が違いました。女子寮では警備員がいて、門限を破ると始末書を書かなければならないようでした。でも面白いのが、学生のほうも門限を過ぎたときの言い訳次第でとがめられなくなるという状況があるわけです。そこで、毎回のように「親族が病気で亡くなった」というような言い訳をするイランの学生もいたと聞きました。こうした機転を聞かせた嘘というのは、(いい意味で)非常にイランらしいと言えると思います。
私がいた寮は、外国人寮でありながらペルシャ語だけを話すことができましたし、学習の環境としてはよかったと思います。ただし、不満もありました。私はもっとイラン人の日常生活を感じられる所で生活がしたかったのです。結果的に私はそのあと、テヘランの南西部にある人口密度が高く生活感のある住宅街に住むことになったのですが、そこと比べると、大学周辺というのは特殊な場所だったのだなと思います。
というわけで次回はテヘランの南西部に家を借りた話を書きたいと思います。
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