先日、『劇場版 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜』を観てきた。よくできた作品だったが、思うところがいくつかあったので少し書いておきたい。
(画像は「響け! ユーフォニアム」公式サイトより)
『響け! ユーフォニアム』にある2つの要素
『響け! ユーフォニアム』は吹奏楽に青春をかける高校生の姿を描いた武田綾乃による小説シリーズで、2015年春に京都アニメーションによりテレビアニメ化され好評を博し、翌2016年4月にはそれをまとめた映画が公開、さらに10月にはテレビアニメ2期が放映された。今回の劇場版『届けたいメロディ』は、テレビシリーズ2期の内容を劇場版用にリミックスした内容となっている。
アニメ作品としての『ユーフォニアム』では、2つの要素が重要だったと考えている。
①『けいおん!』のアップデート版という側面
軽音部に所属する女子高校生たちの日常生活を描き、2000年代後半における「日常系(萌え)アニメ」の代表作となったのが、京都アニメーション制作の『けいおん!』であった。この作品は、可愛らしい少女キャラクターたちによる、無目的であるがゆえに多幸感に満たされた日常生活描写が人気だった。
なぜそんなものが受けたのか。現代日本人(主に若年男性)たちは、勉強・仕事・友人関係・恋愛・デスゲームなど、日々激しい選別&競争に晒され疲弊しきっていた。「のけもののいない優しい世界」へと逃避しなければならなかったのだ。そこで、『けいおん!』で描かれたような、他愛のない少女たちの日常が約束の地として目指されたのであった。
▲チャールトン・ヘストン主演の名作映画『十戒』(1956年公開)。奴隷として虐げられ続けたエジプトを脱出し、約束の地カナーンへと向かうイスラエルの民の苦闘が3時間40分にわたって描かれる。
こういった一連の流れは、80年代後半〜90年代前半の英国で起こった社会現象「セカンド・サマー・オブ・ラブ」「マッドチェスター・ムーブメント」を想起させる。1960年代以降、イギリスは「英国病」といわれる長期不況に悩まされていた。そして1979年にマーガレット・サッチャーを首相とする保守党政権が誕生。サッチャーは不況を克服するため歳出カットなど一連の新自由主義的改革を断行し、一部で成果を挙げたものの、失業率の増加と格差の拡大を招いてしまった。
不況のさらなる長期化は、とりわけ若年層の雇用を直撃した。やがてイギリスの若者たちは辛い現実からの逃避先としてダンスとドラッグへと向かい、クラブカルチャーが盛り上がる(セカンド・サマー・オブ・ラブ)。そして、ダンスミュージックの先鋭化はロックシーンにも波及し、ハッピー・マンデーズやザ・ストーン・ローゼズといったサイケデリックでダンサブルなサウンドを特徴とする人気バンドが生まれた(マッドチェスター・ムーブメント)。
その潮流の到達点となったのが、現在も活躍するプライマル・スクリームの1991年のアルバム『スクリーマデリカ』だろう。
このアルバムに収録されている「Movin’ On Up」や「Loaded」といった曲は、セカンド・サマー・オブ・ラブとマッドチェスターの集大成的な性格をもつ。特徴は「ドラッギーな多幸感」だ。現実からの逃避先として「過剰なまでの多幸感」に溢れた表現が好まれたのだ。
日本においても90年代以降の「失われた20年」でとりわけ若年層の雇用機会が失われ、さらに追い打ちをかけるように2008年9月にリーマンショックが起こる。企業はさらに新規採用を絞り込み、学生の就職難が社会問題となった。ちょうどその時期、2009〜2010年にかけて放映され人気を博したのが『けいおん!』であった。『けいおん!』に代表される日常系アニメは、「現実からの逃避」として「過剰なまでの多幸感」を表現したという意味でマッドチェスターと相似形を成す現象だった。
しかし2010年代にもなってくると、多幸感を追求するエピキュリアンたちがさらなる進化を遂げていく一方で、「本当にこのまま多幸感に包まれたままでいいのだろうか」「もっと本気で何かに取り組まなければまずいのではないだろうか」という危機感も生まれてくる。
そんな状況下で京都アニメーションが制作した『ユーフォニアム』は、キャラクターのビジュアルこそ『けいおん!』的な可愛らしい「萌え」的キャラクターの系譜を継いでいるが、物語で描かれる内容は「吹奏楽に本気で取り組む」「であるがゆえに人間関係のギスギスも生まれ、それをなんとかしなければいけない必要に迫られる」というシリアスなドラマの成分をも、不可避に含むことになってしまったのだった。
②2010年代、『弱虫ペダル』『ダイヤのA』要素の伸長
さて、『ユーフォニアム』にはもうひとつの文脈もある。3.11への対応をめぐる民主党の失策もあって2012年には自民党が政権を奪還し、再び首相の座に返り咲いた安倍晋三は「成長戦略」を軸に据えたアベノミクスを実行する。そんななかで、サブカルチャーの世界で再び存在感を放つようになったのが、『弱虫ペダル』『ダイヤのA』『ハイキュー!!』といった少年主人公の熱血部活成長ストーリーであった。これらはもともと少年漫画誌で始まったが、アニメ化に前後して急速に女性人気を拡大し、2.5次元舞台化も行われるなど好評を博した。これらは今や女性ファンが支えているといっても過言ではないと思うが、『ユーフォニアム』はそういった少年主人公熱血部活ものの方法論を、男性視聴者向けコンテンツに応用したものだ。
どういうことか。まず『ユーフォニアム』では特に、『ダイヤのA』要素との類似性に着目したい。『ダイヤのA』は、強豪校野球部に所属する男子高校球児たちが寮生活で絆を深めつつ甲子園を目指して奮闘するという王道野球漫画である。現実の「野球部」文化は戦時下のタテマエ主義的日本社会の言論状況+戦後に野球がGHQのお墨付きを得たがゆえに旧日本軍から復員してきた人々の軍隊的指導が温存された、という状況を背景に成立したものと大まかには言うことができる。そして『ユーフォニアム』の舞台となる吹奏楽部もやはり戦前の軍楽隊が起源で、戦時下ではとりわけ奨励され、国威発揚と戦意高揚に利用されていった。
それゆえ、『ダイヤのA』の「野球部」、『ユーフォニアム』の「吹奏楽部」の部活世界ではともに、ミリタリー的な上下関係へのフェティッシュ要素が大きく含まれているのだ。
▲YouTubeに落ちていた『響け! ユーフォニアム』2期のオープニング動画(楽曲はTRUEの「サウンドスケープ」)。『けいおん!』的なドラッギーな多幸感と、『ダイヤのA』的な「ガチ感」が悪魔合体してしまっている。
部活ものにおける「先輩萌え」の限界
ただ、今回の劇場版を観賞して気づかされたのが、『ユーフォニアム』にかぎらずこういった部活ものはあまりにも「先輩萌え」というフェティッシュに依存しすぎており、そこには物語の強度を崩しかねない危険性があるということだった。
特に今回の劇場版では、主人公である1年生の黄前久美子と、3年生で同じ楽器(ユーフォニアム)を担当する「あすか先輩」との関係が主軸に据えられている。副部長で吹奏楽部の主力であるにも関わらず母親の「受験勉強を優先しなさい」という意向で退部しようとしているあすか先輩を、久美子はなんとか引き留め、目前に迫る全国大会に出てもらおうと奮闘する。テレビシリーズにはなかった新規カットも含め、たしかに今回の劇場版で二人の関係性はよく描けている。
しかし、全体的にテレビシリーズと比べると、どうにも消化不良感が残った。「劇場版はダイジェストなんだから消化不良になるのは仕方ないだろ」――それはそうなのだが、今回のものは個人的に許容量を超えてしまっていたように感じた。
筆者は『ユーフォニアム』のテレビシリーズはけっこう好きである。2期では特に、1期では主人公格の麗奈に嫌がらせを行うなど数々の悪事を働いた2年生の優子先輩(ネットでは「デカリボン先輩」と呼ばれている)が、同学年の女子部員同士が復帰する復帰しないですったもんだの大騒動の末、大正義デカリボン先輩ともいうべき大立ち回りを見せる。1期で地に落ちていた視聴者の評価を2期でV字回復させ、今季のMVPともいうべき活躍を見せたのであった(デカリボン先輩については、ピクシブ百科事典に有志によるものと思われる過剰に詳しい解説があるので、そちらも参照していただきたい。もっとも、ユーフォニアム関連のピクシブ百科事典はどれも詳細を極めているのだが……)。
▲デカリボン先輩こと優子先輩。3年生引退後は部長に就任することが判明し、デカリボン率いる新生北宇治への期待が高まる(画像はアニメ2期公式サイトより)
また、1年生ながらトランペットでソロを担当するなどエース級の活躍をする高坂麗奈と主人公・久美子の百合展開も『ユーフォニアム』の大きな魅力のひとつであったはずだ。
ところが今回の劇場版では、久美子-あすか先輩の関係にフォーカスが当たり、デカリボン先輩の活躍や久美子-麗奈間の百合エピがほぼ全カットされている。1本の映画にまとめるには仕方ないとはいえ、これは『ユーフォニアム』という作品のもつポテンシャルを大きく損なっているのではないか。
そもそも、高1の久美子-高3のあすか先輩は、数ヶ月しか一緒に過ごさないのに、短期間でそこまで深い関係性になるんか……? と違和感を感じてしまう。テレビシリーズでは他の傍流エピソードとの重なり合いのなかで、そういったあすか先輩関連エピの粗は結果的にうまく隠れていたのであった。
たとえば『弱虫ペダル』は基本的に素晴らしい作品だと思うが、主人公・小野田坂道(高1)と同じクライマーの巻島裕介(高3)の先輩後輩キズナエピソードが描かれるときだけは「うーん、確かにいい話ではあるんだけどさぁ……」となってしまう。ライバル校ハコガクのクライマーである東堂と、巻島との関係であれば、これまで公式・非公式に対戦してきており(東堂から一方的に)電話する仲でもあるので、キズナエピソードが描かれても納得できるのだが……。
要は、今回の『ユーフォニアム』劇場版第2作を観て、『弱虫ペダル』や『ダイヤのA』などこの種の部活もの作品は、「先輩萌え」で物語を動かそうとしすぎているところに弱点があるのではないか? ということを思ったのだ。
特にミリタリー的な上下関係が前提となる部活もので描かれる「先輩萌え」は、かなりの部分ファンタジーであるように思える。高1から高3を見たときオトナに見えるとしても部活の場だけの限定的なものにすぎず、たった1〜2歳しか違いしかない。冷静に考えれば、先輩を無条件に・全人格的に尊敬すべきなんてことは別にない――というのがリアルなところである。
もちろん「フィクションなんだからそこはリアルじゃなくていいじゃん」という意見があってもおかしくない。しかし考えてみてほしい。「先輩萌え」は、果たして本当にフィクションが描くべきことなのだろうか?
逆にむしろ、儀礼的・表面的な「先輩-後輩関係」がたとえば活動のなかで一時的に消失するとか、そういう方向性のほうが、フィクションのなかで描かれたときに革新性があるように思う。現実によくあるつまらない虚構的な上下関係を大げさに表現するよりも、そちらのほうがフィクションで描くことに意味があるのではないか。
というのがこの記事の結論のひとつ。
それと最後にもうひとつ。現実には今、「ブラック部活動」批判が盛り上がっている。その眼でみると、『ユーフォニアム』は顧問の先生たちや臨時コーチのみなさん、部員の様子も含めきわめてブラックな部活だなと感じてしまった。本来はそのあたりの社会的ムーブメントの盛り上がりにも目配せするとまったく目新しい物語になると思うんだけど無理だろうか……。
▲部活動問題の第一人者の一人である内田良先生の決定版的著作『ブラック部活動』(東洋館出版社)。部活問題を考える上では是非多くの人に読んでいただきたい。
とはいえ基本的に『ユーフォニアム』は大変優れた作品である。今後は、鎧塚先輩-希美先輩の関係と、2年生になった久美子たちのストーリーが、山田尚子監督がメガホンを取った完全新作映画として公開されるらしい。いろいろ文句、因縁を述べてしまったが、基本的に制作陣に対しては「止まるんじゃねぇぞ…」という気持ちであることを申し添えておきたい。
(おわり)
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