安野モヨコ『後ハッピーマニア』が去年秋から連載を開始していて、最近はWeb広告などにも登場している。このあいだ単行本が発売されてさっそく重版がかかったらしい。
僕が『ハッピーマニア』を初めて読んだのは10年以上前、大学生のときで、当時は、安野モヨコがちょっとオシャレ漫画ふうの位置づけであった。あと、ちょうど『働きマン』がドラマ化されるぐらいの時期でもあった。
というか直接的なきっかけは、当時付き合っていた彼女が、高校生のときから安野モヨコが好きだという話を聞いたからな気がする。
『ハッピーマニア』以外にも、『ラブマスターX』『花とみつばち』『脂肪という名の服を着て』『監督不行届』とか、いろいろ読んだ。ちなみに『チェイシング・エイミー』の話は、当時自分が陥っていた状況とかぶっていてなかなかに心を抉られた。
『ハッピーマニア』を好きになった理由
『ハッピーマニア』は正統派の少女漫画とは対極にある作品だ。主人公のシゲタカヨコ(シゲカヨ)は、要は非常に性的に奔放な女性、なのだ。正統派の少女漫画では、シゲカヨみたいなキャラクターは、主人公にはあんまりならないと思う。
シゲカヨは、奔放でありつつなんかカラッとしている。
急に現実の話をすると、僕が20歳ごろ、いまから10年ちょっと前に思ったことは、「女性の場合、「不良性」というものが発揮されると性的な方向に行きやすいのでは?」ということだった。僕の周囲、東京近辺で10代を過ごした80年代後半生まれの人たちは、いわゆる「援交世代」よりは少し下ではあるが、その雰囲気はまだ濃厚に残っていた。
自分の数少ない女友達はそういう方向に走っていた人がわりといて、話を聞くたびにちょっと陰鬱な気持ちになった。男子が不良になったとしてもせいぜい喧嘩とかの武勇伝で終わるが、女子の非行話は、なんかあまり楽しげではなかったのだ。メンタルに来るというか……そういう話をしていても全然楽しそうではなかった。
だけどシゲカヨの場合はそういう陰鬱さが全然ない。ただ単に欲望の赴くままに行動している。傷つかない。何度でも立ち上がる。
かつて宮台真司が、「援交少女は傷ついていない、あれは彼女たちなりの『終わりなき日常』を過ごすための生き方なのだ」というような、援交少女肯定論をやっていた。そこに対して反対派が「援交は魂が傷つくからやめなさい」という道徳的な反論をする、という構図があった。
宮台真司は後に、援交世代を第一世代、第二世代、第三世代に分けて、「第一世代はカラッとしていたが第二世代、第三世代にいくにつれジメッとしてくる」というようなことを言うようになった。『制服少女たちの選択』の文庫版に、このあたりの話が書いてある。
ちなみに第一世代というのは、いわゆる「団塊ジュニア世代」、70年代前半生まれのことである。そして僕と同じ80年代後半生まれの世代が、第三世代として分類されている。僕が周囲の女子に感じていた「陰鬱さ」と、宮台真司の言っている感覚はぴったりと符合してしまう。
スーパーヒーローとしてのシゲカヨ
現実にそういう陰鬱さを感じていたなかで、『ハッピーマニア』のシゲカヨは突き抜けていてすごかった。なんというか、「俺たちにできないことをやってのける!そこにシビれる!あこがれるゥ!」的な感覚だった?のかもしれない。
だから、シゲカヨというと、僕のなかでは「スーパーヒーロー」という感じである。「俺たちのシゲカヨ」とも言っている。
恋愛の一瞬に生きる、後先はなにも考えない。とりあえずセックスする。でもそれでいちいち傷つかず「楽しかった!」という感じ。恋愛に破れて一瞬落ち込むけどすぐに立ち上がる。こういうことは現実にはなかなかできないと思うのだ。シゲカヨのように直感と情熱に従って生きられたらどんなに良いだろうと思う。毎日アッパーでキラキラと生きる。徹底的に自己中心的であり、社会からの押しつけ――「手に職」とか結婚とか――を一切拒否して生きる。「生産性」なんて微塵もない。そして他人に迷惑をかけまくる。
だけどシゲカヨ的なアホでアッパーな感じはいま一番ダサい感じである。プロテスタンティズム的な禁欲主義、「筋肉は裏切らない」と言いながら資本主義に従属する身体、「○○しなければ生き残れない!」と煽るビジネス本が売れ、「他人に迷惑をかけてはいけない」というモラリズム、そして「アッパー」ではなく「チル」が流行る時代。でも、いま一番ダサいものが、実は一番、潜在的に求められているものなんじゃないかとも思う。
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