そろそろモラトリアムも終わりかもしれない

大黒埠頭の様子 雑記

最近いろいろあり、何やらずっと引き延ばしてきたモラトリアムを終えなければいけない気がしてきた。

大学生の頃から34歳の今まで、ほとんど同じ価値観で生きてきたように思う。なにせ、入社式とか、結婚式とか、そういう20代にありそうなイニシエーション=通過儀礼を一度も経ないまま暮らしてきたのだ。

今でこそ自活して東京に住んでいるが、今の生活は、「だいがくせいのぼくがかんがえたさいきょうのせいかつ」である。

大学生の頃は

  • 一人暮らししたい
  • 都心に住みたい
  • お金に困らずにいたい

と思っていた。しかしどれも実現できなかった。

だけど、いまは新宿に住んで都会的な生活をしていて、贅沢はできないがお金に困っているわけでもない。

しかし、

それでは自分のために生きているだけだ。

自己充足的=コンサマトリーな生活だ。

それが悪いわけでもない。

はっきり言って孤独は好きだ。一人で自由に自分のために生きている時間は、何にも代えがたい。

だけど、もう潮時かもしれないという予感が、頭をよぎる。

仕事が、すごく結果が出ているわけでもないのに、忙しくて他のことができないのも嫌である。

20代前半の頃は、お金がなかったし働いてないので社会的地位もゼロだったが、暇はあり、最高な彼女もいて、実家の猫もまだ元気に生きていた。「夢」のようなものがあり、それに向かって努力もしていた。愛するものに囲まれていた幸福な時間だった。

でもあるときそれらをすべて捨てて、飢餓感を抱えながら働くことを選んで、もう7年ぐらいは経ったと思うが、今度は徹底的に孤独になったなと思う。

手塚治虫の『ブッダ』でいえば、妻ヤショーダラーがいて、父や母がいて、何不自由ないカピラヴァストゥという城で暮らしていたのを捨て、四門出遊して荒野をさまよっているような感じだ。

『暇と退屈の倫理学』でいうところの、退屈の第一形式(何かによって退屈させられている=主体的でないワーカホリック)と第二形式(何かに際して退屈している=パーティーなどのように、退屈と気晴らしが入り混じった状態)を行ったり来たりしていたのだが、それを退屈の第二形式と、退屈の第三形式(第一形式、第二形式よりももっと深い退屈を感じた上で、決断的に、主体的に生きること)を行ったり来たりすることに移行するべきかという気がしている。

実は、多くの人は、

  • 退屈の第一形式と第二形式の組み合わせ(ワーカホリック+暇)
  • 退屈の第一形式と第三形式の組み合わせ(ワーカホリック+決断)

のどちらかではないかと思うのだ。

しかし、

  • 退屈の第二形式と第三形式の組み合わせ(暇+決断)

の組み合わせはけっこう珍しい。今のところはこれなのではないか。

 

……いや、うーん、どうだろう。

僕がここで「決断」と言っているのは、誰かのために生きるということだ。単純に自己充足的ではない、貢献的な生き方というか。しかしそれは、『暇と退屈の倫理学』で言われるように、容易に「第一形式」へと還流していく。やはり、「決断」はなにがしかのいびつなものにならざるをえないと直感する。

そうすると、第二形式を徹底するということなのかな。経済的になかなか難しい気はするが、どうしたら実現できるのかは考えてみてもいいかもしれない。

こうして『暇と退屈の倫理学』にしたがって整理してみると、「モラトリアムも終わりかもしれない」と言い切れないような気がしてきた。結局、幸せに生きるにはどれだけ退屈の第二形式を確保するかだから、それは「部分的にモラトリアム的な余白を確保し続けることが必要だ」、ということになるのかもしれない。

別に、決断的に生きること、誰かのために生きることはダメではないし、逆に主体的ではないワーカホリックになるのもダメではないのだが、どちらにしても、自分の生活の、自分の時間のなかで、どれだけ退屈の第二形式的な時間をできるかぎり確保し、拡張し続けるということなのかなぁ。

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