SNSで疲れないために

終電後の新宿東口

僕のような1980年代後半生まれの人間は、20歳前後のときにミクシィの洗礼を受けているので、いま「SNS疲れ」と言われるようなことを10年以上前から経験してきた(当時は「ミクシィ疲れ」と言われていたものだ)。

SNSは、基本的に自由に使っていいものだ。「他人のこういう使い方がイヤだ」と思ったところで、それを他人に強制はできない。使い方が自由である以上、「SNSで疲れる」と思ったとしても、自分自身の受け止め方を工夫するほかない。

現代はFacebookやTwitterがあり、実名(またはそれに近い状態)で使っていると、職場や学校など、「あまり好きではない」人とつながらなければいけなくなったりして、それでイヤな思いをしたりもするのだろう。

僕個人は、SNSは楽しく使うものだと思っていて、実際に楽しく使っている。「イヤな思いをしない」「楽しく使う」ために考えていることをざっと書いてみる。

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エアリプに反応しない

「エアリプ」というのは、直接名指されているわけじゃないけど「私のことかな?」と感じられるようなドキッとする他人の投稿のこと。

長年使っていて思うのが、「これって俺のこと?」「なんか指摘されてる?」と思った他人の投稿でも、多くの場合は自分のことを言ってなかったりする。

なので、いちいち「これって自分のことかな?」などと敏感に反応しないようにする。

ライターの仕事をしていてもよく思うのだが、世間の人々はそんなに俺(あなた)に関心なんてない。それは自意識過剰な若者の時代であればショックを受けるようなことかもしれないが、同時に心休まるような真実だったりする。よくも悪くも、ありがたくも、「他人はそんなにあなたに関心ないよ、大丈夫」というぐらいに思っていたほうが良い。

他人の一言一句にいちいち反応したり、自分の投稿を他人の目を気にして控えたりするよりも、思うことを好きなように投稿したら良い。

もちろん、そういうことをやっていると、他人から怒られることもあるが、もし自分が悪い部分があると思ったら都度、反省すればよいだけだ。SNSを使っていれば、誰でも失敗はある。失敗を前提に、それでもこのツールをうまく使えるように習熟していければそれでいいんじゃないか。

▼ちなみにこの種の話でしっくり来たのは小池龍之介の『考えない練習』という本。

噂を信じない

上のエアリプの話にも通じるが、SNS上でAさんがBさんのことを批判していて、その影響でBさんのことを嫌いになったりする人も多い。

SNSで批判を集める有名人は何人もいる。代表的なのは、田端信太郎、はあちゅう、イケダハヤトなどだ。僕はイケダハヤトとちょっとだけ仕事をしたことがあるが、お願いしたことをきっちりやってくれる、仕事人としてはリスペクトできる人だった。

田端信太郎に会ったことはないが、彼の著書『MEDIA MAKERS』はまごうことなき、メディア人必携の名著である。むしろSNS上の言動はパフォーマンスであり「動員」的な意図が強いのだろうと思っている。

こういったSNS有名人の場合、SNS上での言動はだいたいパフォーマンス的側面が強いと考えているので、いちいち真に受けていない。それよりも、著書を読んだり、実際に会ったときの自分の直感のほうを信じている。

冷静に考えれば、これはSNSに限らず人間関係の築き方として当たり前のことだ。

他人の他人に対する評価=噂をいちいち真に受けず、実際にその人と相対したときの自分の直感を大事にする。

「噂を流す」という行為は、その主体が、その噂を聞く客体に対して、「自分の評価に同意させる」ためにすることだ。それはある種、客体に対しての権力の行使である。だが、噂の対象人物に対する評価は、真っ当に考えれば「自分が決めるべきこと」だ。他人にどうこう言われる筋合いはない。

人の噂を聞いてその人の評価を変えるということをすると、大抵、ろくなことにならない。人間は多面的なものだ。誰かにすごく嫌われている人がいたとしても、その人のことを愛している人間がいる、ということは、折に触れて思い返すことにしている。そういう想像力こそが必要だ。

アカウントを分裂させない

これには異論がかなりあるだろうが、僕はひとつのプラットフォームあたり、1個のアカウントしか持たないようにしている。特にTwitterの場合、ジャンルごとにアカウントを分けたり、または外行き用と、ごく親しい人向けにアカウントを分けたりしている人も多い。

ただ、これをやっていると、別アカウントが他人に見つかったとき、「あ、この人は場面ごとに使い分けをする人なんだ」と思われて、不信感を与えることにつながる場合があり、それはデメリットになりうると思っている。

これも一般的な人間関係にも言えることだと思うが、「人によって、場面によって態度を変える」という人は信用されづらい。人間なので多少はそういうことも仕方ないし自分にもそういう部分があると思っているが、SNSの「複数アカウントを持てる」という構造に甘えると、どんどん人間の嫌な部分が増幅されてしまうのではないか、という気がしている。だから、そういう「プラットフォームの罠」にはまらないようにしている。

とはいっても、プラットフォーム別には投稿する内容は変えている。基本的には、「Facebookは建前ベース、Twitterは本音ベース」だ。とはいっても、どちらも実名でやっているのでキャラクターに齟齬が出ないほうがいいとは思っている。同じ内容でもプラットフォームに合わせて投稿文をちょこっと変えたりはしている、というだけだ。

「アカウントを分裂させない」というのは、自分というものの一貫性について考えることにつながる。簡単に分裂させるよりも、「SNSを使いながら、個人が統合される」感覚のほうが気持ちいいものだと感じている。

「SNSで人生は変わらない」と知る

SNSは、タバコ休憩みたいなものだと思っている。

タバコ休憩に行くと、喫煙所にいろんな人がいて、その人と仲良くなったりする。

ただ、それは大抵の場合は仕事になんてつながらない。でも、そういう「休憩」の時間を他者と共有できるだけでいいんじゃないかと思う。

SNSで流れてくる情報はあくまでも受動的に得たものだ。ラクして得た情報で人生が変わるわけがない。それよりも、自分が能動的に、強烈な興味を持って、本を読んだりしたほうがよっぽど身になる。

SNSはタバコ休憩。だからこそ素晴らしい。だけどそれで人生が変わるわけなんてないし、それで病むなんてあまりにもナンセンスだ。

リアルの人間関係を一番大事にする

これも上に書いたことと共通するが、結局は、職場や学校などのあるひとつの目的に向かう集団での「絆」なんかよりも、「目的」を共有しないけれども自分と一緒にいてくれる人をこそ一番大事にするべきだ。

前に「「合わない人」――人間関係ノウハウ系記事ブームについて」という記事で、「目的をともにする人」と築くことのできる人間関係の良さについて書いたが、逆に言えば「目的」を共有しない人間関係にも良さがある。

SNS上でどんなやりとりを目にしようが、いったんリアルの人間関係に戻れば「きわめてどうでもいいこと」のように感じるのではないだろうか。利害でつながっていないのに、自分と一緒にいてくれる人のありがたさこそを大切にしたい。

SNSに振り回されない、使いこなす知性を身につける

SNSを見てる奴は暇なのだ。僕もそうだ。

でも、その外側にこそ、知るべきことがたくさんある。

だからこそ、本を読み、人と会い、自らいろんな場所に足を運んで、(インターネットのフィルターを通さずに)ダイレクトに物事を感じられる感性と知性を磨いていくべきだ。

とはいえ僕もSNSを見たり、書いたりすることに時間を使いがちである。

タバコ休憩はいいものだが、長すぎてもよくない。

そういうときにハッと我に返って、自分が取り組むべきことに取り組む時間をつくろう。

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