1998年夏の『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』

最近、戦前と戦争直後の社会史についていろいろ調べていて、ふと「大日本帝国」という言葉を初めて知ったときのことを思い出した。たぶん小学校高学年の頃なので90年代後半だと思うが、たしかNHKスペシャルか何かでそういうタイトルがついている番組があったのだ。

当時の僕の中で「日本」といえば「いつも変わらない場所」というイメージだった、気がする。まあ、オウム真理教の事件とかはあったのだが。当時(1995年ぐらい)の小学生のあいだでは「しょーこーしょーこー しょこしょこしょーこー♪」というあのオウムの歌とか、「ポアするぞ!」というフレーズが流行っていて、先生や親に怒られる子どもが続出していた。東京の中枢で化学テロが起こり、山梨のサティアンで捜索が行われていたし、村井秀夫が暴漢に殺害されるとか、そういう事件が立て続けに起こってはいたが、横浜の内陸部の住宅地では「テレビや新聞のなかのできごと」という感じであった。


▲そういえば去年、ドクター苫米地好きの友人と急に「サティアン行こうぜ!」ということになり、現地に行ってきました。

1995年といえば、今では文化史的に重要なターニングポイントとして振り返られることが多いのだが、その一方で戦後50年で、何か「平和だよね〜」みたいな雰囲気しかなかった気がする。

小学5,6年のときの担任の先生はわりとわかりやすい左翼だった(もちろん、当時は思想がどうのとかはわからなかった)。その先生は実験的な教育法が好きだったので、よくディベートの授業とかをやっていて、それがけっこう楽しかったので、そのときに「戦後民主主義」的センスはかなり吸収したし、歴史が好きだったので学習漫画とかをよく読むわけだけど、当時の集英社版「世界の歴史」シリーズでは、レーニン、毛沢東、ホー・チミン、金日成はかっこよく描かれていたので、素朴に共産主義陣営は善玉だと思っていた。

そんなときに、「大日本帝国」という言葉を知って、この平穏な国が、かつてそんな禍々しく暴力的な響きを持っていたなんて、ということに衝撃を受けたのだと思う。

『戦争論』について

ところが中一の夏、すなわち1998年の夏に、大学生ぐらいだった兄が友だちの影響で読み始めた『ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』を僕も読み、「今まで洗脳されていたのか……!」となり、ネット右翼(当時はまだ今みたいにネットは一般化してなかったけど)に開眼した。当時『戦争論』を読んだ人には、けっこうそういう人が多いのではという気がする。


小林よしのり (著)『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 (幻冬舎単行本) Kindle版

僕が進学したのは横浜中心部の私立進学校(男子校)でマセガキが多いので、中学生ながら『ゴー宣』はけっこう流行っていて、回し読みしていた。なかには(自分も含め)なぜか保守的思想に開眼した人がけっこういたと思う。そしてそれは、自分たちが受けてきた戦後民主主義教育のタテマエ論への反発でもあった。

『戦争論』という作品は文化史的なインパクトはとても大きいと思うのだが、実はちゃんと読まれているわけではないと思う。大学は社会学部に進学し政治学とか社会政策のゼミに入ったので、『戦争論』のことは多くの同級生が知っていたが、「なんかやばい書物でしょ」ぐらいの感じで、食わず嫌いして読んでいない人が多かった。でも『戦争論』は、政治的な思想は抜きにして、今のようにネット右翼が跋扈し、(その良し悪しはさておき)復古主義的な言説が簡単に流通するようになった日本社会を理解する上では、読んでおいて損はないのではないかと思う。

まあ、この本をちゃんと読んで、その後の『ゴー宣』の展開をきちんと追っていれば、むしろシンプルな意味でのネット右翼にはならないだろうと思う。ちなみに、2010年代の観点から『戦争論』当時のことを、作者の小林よしのり氏らとともに振り返ったテキストが『ナショナリズムの現在』という本になっており、僕はこの本の構成を担当している(会社の事業としてやったので今後自分には1円も入らないけど一応宣伝)。

で、話を少し戻すと。

戦前戦後の社会史を調べていて、要は『少年倶楽部』(1911年に大日本雄弁会=現在の講談社で創刊された少年雑誌で、60年代に「週刊少年マガジン」に吸収された。なおマガジンは1959年創刊)とかそのあたりのことなんだけど、戦前・戦中期の少年性と軍国主義的思想というのは、簡単に接続し得るものなのだ、という感じがする。


(画像は五萬堂書店画像目録(ブログ版) 少年倶楽部 第三十巻第五号 帝国海軍号より)

これなんかは完全に、たぶん「海軍のお兄さんに憧れる弟」みたいな読者イメージが共有されていたんだろうなと思う。そして、「少年の身体」はものの見事に、総力戦体制のなかに組み込まれていった。こういう文化史(の暗部)を、肯定的に振り返るのはかなり難しいのではないかと思う。

ちなみに太平洋戦争について2010年代の最新の研究成果を知るには、NHKスペシャル取材班の『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』シリーズ(民衆・指導者編、外交・陸軍編、果てしなき戦線拡大編の3冊がある)と、『日本海軍400時間の証言: 軍令部・参謀たちが語った敗戦』がおすすめ。まあ、放映されたドキュメンタリーそのものをNHKオンデマンドで観るほうが気軽かもしれないが。

で、何が言いたかったかというと、90年代末の「男の子」に『ゴー宣』が流行ったのは、ある種、戦前までは普通に存立していた「失われた男らしさ」を回復するとか、そういうところに魅力があったのではないかなと思った。自分の行っていた男子校でちょっと流行っていたのもその例のひとつではないかと思う。したがって今のネット右翼現象というものも、何らかのかたちで「男らしさ」を回復しようという試みなのかもしれない。

色んな社会学的知識を総合すると(ざっくりいうとギデンズとかベックとかだが)現代人はつねにアイデンティティの危機にあると言われている。そうなるとアイデンティティの拠点として簡単に選ばれやすいのが人種とか国籍のように「努力しなくても生得的に得られるもの」であって、「性別」もそうかもしれない。

余談

今回書きたかった話は以上なんだけども少し続けると、もうひとつアイデンティティの拠点として選ばれやすいのが「消費行為」だ。自分は何々のファンである、何々オタクであるとかは、「お金を払ってアイデンティティを買う」という行為で、生得的要素に頼るものよりは、自己関与の度合いはちょっと高い。

そして、もっと自己関与の高い形でアイデンティティを獲得しようとすると、「なりたい仕事につく」とかそういうビジネス・自己啓発系の人になっていく。ビジネスの分野で職業的達成を目指す人は滅茶苦茶能動的である一方で、いわゆる「意識高い系」という形で括られることになる。

しかしまあ、上に挙げたどの選択肢も、「アイデンティティの危機」という問題をメタに認識しないままあがいているという点では、同じ穴のムジナのような気がする。

最近、千葉雅也さんの『勉強の哲学』とか、國分功一郎さんの『中動態の世界』といった、最新の哲学研究の成果を踏まえて一般の読者に向けて書いた哲学本が売れている。これはおそらく(あくまでも結果的に)、現代人が危機を抱きがちな「アイデンティティ」という問題系を無化するように機能しているのではないか、という気がする。まあ、まだどちらも途中までしか読めていないのだが。でも、読んでいてほっとする気持ちになる。

(おわり)

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