「傷は癒えた!」はありうるか――映画『聲の形』について

■はじめに

先日、アニメ映画『聲の形』を観てきました。この作品はもともと週刊少年マガジンで連載されていてマンガファンのあいだでも評価が高く、僕もコミックが出るたびに買って読んでいて、とても面白い作品だと感じました。映画の公開タイミングでは観ることができていなかったのですが、このあいだようやく観賞できたので、『聲の形』という作品全体の紹介も兼ねつつ、現代におけるジュブナイル作品の課題について書いてみたいと思います。ネタバレは最低限にとどめるので、多少のネタバレは気にしないよ、という人はぜひ最後まで読んでもらえればと思います。

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大今良時『聲の形(1)』

■『聲の形』はどういう作品か

『聲の形』は、聴覚障害者である西宮硝子と、小学生時代にその障害のことで西宮をいじめていた石田将也の2人が高校生になって再会し、その2人を軸に「高校生たちが子ども時代のトラウマにどう向き合うか」を描いた作品です。
子ども時代になんらかの「いじめ」に遭遇(加害者であれ被害者であれ、傍観者であれ)した人には少なからず刺さる物語だと思います。
作品内には西宮や石田だけでなく、小学生当時にいじめの現場にいたクラスメイトたちや、西宮や石田の家族、そして彼らが高校生になって出会った友人たちが登場します。
特に小学生時代の回想シーンではいじめの現場が描かれ、なかなか陰惨な印象を読者に与えるものになっていると思います。

■作品の「尺」について

原作ももちろん面白いのですが、映画も2時間の作品としてはとても丁寧に描かれていて良作になっていると思います。
映画鑑賞者からは上映時間が120分を超えることから「長い」という感想も聞かれましたが、原作ファンの自分としては逆に「短いな」という感想を持ちました。原作は全7巻であり、それを2時間で過不足なく伝えるのはやはり難しかったと思います。
とはいえ映画のほうはプロットはしっかり追っており、映画だけみて「ここはほんとうはどういう意味だったの?」と気になる方は、ぜひ原作を読んでみることをおすすめします。
個人的に問題だと思ったのは、漫画というのはだいたい7〜10巻くらいだと物語として収まりのいいものになると思うのですが、それを適切に表現するには「2時間」という制約のある映画、「12〜13話で1クール」というTVアニメシリーズともに、あまり適切な尺ではなく、このぐらいのサイズ感を収めるメディアが新しく出てくるといいのになと思います。
映画では、ややボリュームのある原作の場合、前後編で公開するという手法が最近よく採られていますが、やはり前編に比べると後編のほうの客足が鈍ったり、前編でコケた場合後編で内容的に挽回したとしても人々の耳目に伝わりづらいという難点があり、制作者サイドはこのぐらいのサイズ感の作品の取扱いに苦慮しているのだと思います。

■作品のある種の「難解さ」について

最近、『君の名は。』が社会現象ともいえるヒット作になっており、アニメ映画への人気が集まっているなかで、『聲の形』もスマッシュヒットとなっています。
個人的には『君の名は。』も大変よくできた作品だと思うのですが、『聲の形』はそれよりも文芸的な意義の高い作品だと感じました。
基本的に『君の名は。』は設定の整合性よりも、お話の疾走感とミュージックビデオ的な演出のかっこよさを優先しており、「ここのところはどうなっているの?」という考察はあまり意味をなさない作品であると思います。
それに比して『聲の形』は描写の重層性が高いのですが、これは原作もそういうふうに作られていて、それを踏襲しているといえます。聲の形という作品自体が、セリフで説明せず描写で見せる文芸的な作風です。その雰囲気を映画もかなり引き継いでいるわけです。
近年のアニメや映画作品は「説明をしっかりする」ということを重視する傾向があります。そのことを、「セリフではなく画面の描写から読み取る」という映像作品に慣れている年長世代の視聴者・読者が批判するという構図がやや見受けられます。その点、『君の名は。』は説明的でありつつも、考察をあまり要しないという点ではきわめて現代的な作品であると言えるでしょう。

■『ひぐらし』「カゲロウプロジェクト」『ダンガンロンパ』――オタク向けジュブナイルの展開

一方、『聲の形』はある種の難解さを多分に含んでいます。
かつて90年代には、(奇しくも『聲の形』と同じく)週刊少年マガジンで『金田一少年の事件簿』が人気を博しており、「犯人当てクイズ」というかたちで読者が謎解きに参加するという光景がみられました。2000年代以降も、『ひぐらしのなく頃に』が、年に2回のコミックマーケットのたびに新作を発表しファンは一斉に謎解きに参加していましたし、2010年代でいえば連作形式のミュージックビデオ的な試みである「カゲロウプロジェクト」において、新作がニコニコ動画に公開されるたびに中高生たちがコメントで「これはこういうことだ」という推理を繰り広げていたりしました。
最近でも、もともとPSPで発売された推理ゲーム『ダンガンロンパ』『スーパーダンガンロンパ2』が好評を博したことを受けてアニメ作品『ダンガンロンパ3 The End Of 希望ヶ峰学園』が放映され、こちらはゲーム時点から若い世代に人気を得ていたこともあり、アニメの話数を重ねるたびにネット上で様々な考察が飛び交っていました。

■『聲の形』はジュブナイルコンテンツの試金石

『ひぐらし』「カゲロウプロジェクト」『ダンガンロンパ』は、10代を中心に人気を得たシリーズで、いわばジュブナイル作品なわけですが、あくまでもオタクコンテンツの枠内にとどまっていたと思います。
ところが『君の名は。』がオタク枠を超えて一般層のあいだでも大ヒットしたことで、その恩恵を受けるようなかたちで『聲の形』も非オタクの若者に観賞されている状況があります。
近年の若者向け作品は、先ほども述べたとおり「説明過剰」な傾向があるのですが、これはSNS(主にTwitter)によって、「よくわからなかった」という感想が多数、可視化されたことが大きいように思います。制作者側は、「自分たちが思っているよりも、今のお客さんは読み取る能力が低い」と危機感を持っていて、それゆえに説明をしっかりするようになっているのではないかと思っています。
今回の『聲の形』は、そういった傾向に抗うかのように、ある種の重層性や難解さを含みつつも、オタクではない一般層に訴求しつつあります。この作品はそういった意味で、「制作者側がお客さんを信頼して作品作りをするようになるか否か」のある種の分水嶺的作品になりそうな予感がします。

■「傷は癒えた!」はありうるか

個人的に興味深いと思うのは、『聲の形』という作品が「子ども時代のトラウマにどう向き合うか」というテーマを持っている点です。他の若者向け作品でもそうですが、最近「トラウマ」というものの扱いがまた多くなっているように思います(アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』etc)。
『聲の形』は青春時代を扱う作品であることもあり、そういったテーマに正面から向き合っているがゆえに、鑑賞者にある種の思考を強制するところがあります。この作品は多くの人に多少なりとも「(自分の幼少期の記憶がよみがえることで)傷つく」という体験をもたらすわけです。
そうなったとき、フィクションと現実の関係性が鑑賞者のなかで揺らぐように思います。多くのフィクションは「フィクションのなかのお話だから楽しい」という構造を持ち、鑑賞者にカタルシスをもたらすわけですが、『聲の形』のような作品はそこに(良くも悪くも)留まることを良しとしないわけです。
他のジュブナイル作品と比して『聲の形』が優れていると思うのは、「傷は癒えた!」という形式を採らないところです。

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↑これは漫画『北斗の拳』で、ラスボス的なキャラである「ラオウ」が負傷から回復したというシーンです。ここでラオウは「傷は癒えた!」と言っているわけですが、身体的外傷とは違ってトラウマ(=精神的外傷)は癒えるものではない、という理解が重要なのかなと思っています。

社会学者・圓田浩二(まるた こうじ)氏の著作に『誰が誰に何を売るのか?―援助交際にみる性・愛・コミュニケーション』というものがあります。この本は少女買春というやや過激とも思われかねない事象を扱っているわけですが、少女売春を「現代社会におけるコミュニケーション」として分析しています。
実は『聲の形』においても、実は主題は「いじめ」ではなく「コミュニケーション」に置かれています。西宮硝子の「聴覚障害」というのは、「身近な人たちとコミュニケーションをうまく取れない」という、多くの健聴者たちも持っている悩みの隠喩にもなっているわけです。

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※『聲の形』をより深く読み解くためには、最近出た公式ファンブックに作者・大今良時さんのロングインタビューが掲載されているのでおすすめです。

少女売春に踏み出す人たちは、多くの場合何らかの精神的外傷を負ったことにより、その道へと進んでしまいます。それは当事者たちの語るところによれば「傷で傷を癒やす」行為だと認識されているわけです。圓田氏のフィールドワークが示している興味深い事実は、そういった「傷で傷を癒やす」というのは当然ながら無限ループ的な地獄でもあるわけですが、あるとき「そんなことをしなくても自分はやっていける」という認識に至ったときに、そのループから抜け出すことができる、ということです。
圓田氏の著作には以下のような記述があります。

「回復するということは、それまでよりも健康的な方法で人生の危機を乗り越えられるようになるという意味ではない。回復が進めば進むほど逆境を切りぬける能力が高くなる」
ミホの場合、失恋前よりも「健康的」になったのではなく、「逆境を切りぬける能力」としてのコミュニケーション能力を高め、社会のなかで「私は私でやっていける」自信を得た。(『誰が誰に何を売るのか?―援助交際にみる性・愛・コミュニケーション』214−220頁)

ここでは、トラウマというのは「(健康的に)癒える」ものではなく、「逆境を切りぬける能力」を獲得して始めて、乗り越えることができるものではないか、ということが示唆されているわけです。
かつての『新世紀エヴァンゲリオン』のようなトラウマを扱った作品では、そのトラウマを何らかのテクニカルな手法(テレビ版終盤で自己啓発セミナー的な手法によって主人公・碇シンジが周囲の人間から「おめでとう!」と祝福され承認される、等)によって解消することが目指されていた部分があったように思います(『エヴァ』よりも問題意識がソリッドになっている『少女革命ウテナ』も、似た性質があるように思います)。
もし今後、ジュブナイル的な作品で「子ども時代のトラウマ」を扱う際、「解消」ではなく「切り抜ける」現実を描かなければ、作品としてリアリティを持ち、社会的なインパクトを与えられないのかもしれません。そして実際に『聲の形』では、登場人物たちが青年期に新たにまた傷を負う姿を描かれ、それと向き合うことで乗り越えていくという形式が採られているわけです。
今後のジュブナイル作品を考える際、(もともとのジャンルの性質上もそうなのですが)口当たりのいいフィクションでは留まることが難しいのではないかと思います。少し言い方を変えると、「病んだままでも何とかやっていける」という強さを身に着けることを描かなければ、リアリティが出せないということでもあります。ジュブナイルでは「トラウマ」というテーマを扱う以上、フィクションと現実のこれまでの相互関係が新たなフェーズに入る必要が、もしかしたらあるのかもしれません。

(おわり)

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